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Music of the Spectacle: Alienation, Irony and the Politics of Vaporwave

Original Text: https://daily.bandcamp.com/2016/08/23/politics-and-vaporwave/
Author: Simon Chandler
Published Date: 23/08/2016

一見、ヴェイパーウェイヴの政治学(ポリティクス)は政治学と呼べるほどのものではない。消費主義で感覚麻痺に陥った世界を連想させる『Floral Shoppe』や『Nu.wav Hallucinations』、『Deep Fantasy』といった[ヴェイパーウェイブの]正統に属すレコードに目を向けてみるなら、見たところこのジャンルは、遍在するメディアおよび商品の物心崇拝の疎外効果に歯止めをかけるかもしれない実行可能な政治的プログラムを打ち出すよりも、このような効果に溺れることに関心があるかのようだ。仮にもし、この音楽が政治に解釈されるとしよう。すると『Blank Banshee 1』あるいは『ATMOSPHERES 第1』の表層のレヴェルでの読解は、消費主義の離脱および疎外と、現代生活の代わり映えのしなさに対して進んで麻酔にかかる世にはびこるメディアと物質主義をヴェイパーウェイヴは受け入れるに過ぎないことを示すだろう。

https://blankbanshee.bandcamp.com/album/blank-banshee-1

しかし、このジャンルの目も綾な表層と先進資本主義の幻想に対するうわべの服従の下には、ヴェイパーウェイヴのなかではっきりと進行している政治的な何かが存在している。このジャンルの「傑作」を見ればはっきりと分かる何かが、である。INTERNET CLUBの『VANISHING VISION』を例にとろう。80年代のショッピング・モールや啓発ヴィデオの典型的なサウンドトラックにあった優美なミューザックやキッチュなシンセサイザーといったものを頻繁に用いているアルバムである。あるレヴェルで見れば、かくも見事なまでに皮相な[tacky]スタイルのなかには、現在の政治的現実に対する批判や判断は微塵も存在しない――とりわけ薄っぺらい「インスピレーショナルな」雰囲気のなかで「BY DESIGN」のような通俗的な楽曲が多い時には、その止めどない物質主義的な満足感のなかで、批判的に考えようとする一切の企ての息の根を止められてしまう。

https://internetclub.bandcamp.com/album/

『VANISHING VISION』のようなアルバムは、誰もが認められ、いかなる差別も存在しない魅惑的で平穏な摩擦のないリベラルな社会を表象しているかに思われる。『Initiation Tape』や『New Nostalgia』の穏やかな牙を抜かれた雰囲気においてのみならず、かかるデジタルな旅に付随するどこか定かでもない匿名的なアートワークにおいても、このことは歴然としている。明々白々だが、ヴェイパーウェイヴのアルバムのカバーの大部分には、クリエイター――あるいはその他の生身の人間――の写真が一切含まれていない。このことは、人々がいかに眺めそして抹消されるかを、諸々の規範が決定づける或る世界を示している。あなたがもし楽天家でありたいと思っているなら、『VANISHING VISION』のカバーののっぺらぼうに発光する様――曇ったレンズでとらえられたかのような街頭の風景――は、個人のアイデンティティが無価値の、文明の進んだ自由放任的環境を表している。その代わりに、われわれが消費するメディアとモノが、われわれの価値を決定するのである。

だが『VANISHING VISION』をより仔細に読み解くならば、ヴェイパーウェイヴの多くが描く調和のとれた社会を批判するかに見える一連の欠点が、すなわち「作り話」が明らかになる。欠点の一つは、このアルバムのトラックのなかで何回も不意に句読点を打つ、中断と開始を繰り返すグリッチである。これらの突然のデジタルな発作や振動は、「RENDERS」が呼び出す完璧と見なされていた世界が、当初そう思われていたようには全く完全ではないことを暗に伝えている。こういった繰り返し発生する音楽的チックは、消費に過剰なまでに基づいた社会に関して機能不全に陥っている何かが存在し、ひいてはこの社会が究極的には偽のものであることをさりげなく示している。

かかる要求の多い声明を出すにあたって、ヴェイパーウェイヴは20世紀後期のカルチャー・ジャマーたち、ブランディングや広告を受け入れつつそれらを変形させることによって資本主義を転覆しようと試みた芸術家と反体制派の非公式的集団と最終的に手を結ぶ。もっと深いところでは、終わりのない一連の「スペクタクル」で以てわれわれの気を散らすことによって、資本主義がその本質を隠蔽していると宣言した、50年代後期に活動した急進主義者たちの国際的組織、シチュアニストたちと結託する。これこそまさに、そう、Vektroidの『札幌コンテンポラリー』あるいはwaterfront diningの『NOICE すてきな』のシロップのようなモールジャズが体現しているもの、現代生活のあらゆる領域に人の目を欺くプロパガンダを挿入するマスメディアと消費主義の形をとった、われわれの暮らしと考え方に浸透しているスペクタクルである。

https://beerontherug.bandcamp.com/album/

だがヴェイパーウェイヴの先進資本主義の関係性とそのスペクタクルは、半ば不明瞭な非難が示唆するものよりも、はるかにずっとニュアンスに富んでいる。

https://computer-gaze.bandcamp.com/album/computer-death

Infinity Frequenciesの『Computer Death』やMEDIAFIREDの『THE PATHWAY THROUGH WHATEVER』のようなアルバムがいかにアイロニカルに感じられるか、気づくのはそう難しいことではない。

https://beerontherug.bandcamp.com/album/the-pathway-through-whatever

明らかに古くさく無味乾燥で時代遅れの音楽をサンプリングすることにこれらのアルバムは支えられているが、同時にどのようなリスナーも幾分かのアイロニカルな距離を保って聴き直す音楽の皮相さに居心地が悪くなるように、それらのアルバムはチョップアンドスクリュードとスローダウンを挿入している。

同様に、数十年間社会は消費主義と新自由主義的資本主義をたどっている。どちらも完全ではないと多くの場合容認されているものだ。そしてわれわれの一部がこれに対処してきたやり方だが、アイロニーの立場あるいは態度を採択することは為し終えている(David Foster Wallaceを参照)。われわれは政治家たちを選出し、マクドナルドを冷笑することを続ける一方で、ビッグマックを買うことを続け、[相反する]二つの立場から彼らのことををばかにしている。そしてヴェイパーウェイヴは、紋切型のサンプルに圧倒的な度合いで依存する一方、それらを転覆させることによってこの社会現象を巧妙に象徴化してきた。たったの二作ではあるが例を挙げると、식료품groceriesの『Yes! We’re Open』やSaint Pepsiの『Hit Vibes』の重度のサンプリングを通して、ヴェイパーウェイヴはこのような斜に構えた離脱的な政治的なスタンスを音(サウンド)へと、自らの周りの欠点のある世界を変えることによってではなく、遠くから笑える何ものかとしてその欠点を扱うことによって、我慢できるものに変えてきた全てのカルチャー・ジャマーあるいはヒップスターを、音響的に映し出したものへと転じている。 

とはいえ、ヴェイパーウェイヴとそのアイロニーに変化がないわけではない。2010年に『Eccojams』と『Far Side Virtual』がリリースされて以来、それらは大幅に進化を続けている。このジャンルのなかで現れている最も突出した派生ジャンルは、「ハードヴェイパー」と呼ばれてきている――このジャンルは、消費主義のユートピアのヴィジョンに溺れるのではなく、ヴェイパーウェイヴをそれが無視する醜悪さと、それ自身のアイロニーの不快な含みに対決させる。Sandtimerの『Vaporwave Is Dead』やKlouKlounの『Welcome to Pripyat pt. II』のような綱領で聞かれるように、ガバに由来する音楽面でのアタック感は、インダストリアル・ノイズとバラバラにされたサンプリングを脅かす強いビートに大きく支えられている。しかし、サイバー犯罪都市の衰退化学戦争職場での搾取セックス産業、そしてイスラムのテロリズムすら用いる著名なレーベルAntifurを思い浮かべてほしいのだが、それはまた徹底して荒涼とした東欧のイメージにも寄りかかっている。

https://antifur.bandcamp.com/album/welcome-to-pripyat-pt-ii

このような不遜なやり方で有害な暗い影を承認すると(このレーベルのBandcampのページは、「ヴェイパーハード」のリリースの不真面目な説明であふれている)、Antifurとそのアーティストたちは、このようなわれわれと同じく緊迫し危険な世界のなかで独特のアイロニーを展開するために、ヴェイパーウェイヴが全体的にいかに不適切で無責任かを示しているかに見える。

それでもなお、多くの妥協なき音楽やアートのように、このジャンルの「使命」はわれわれの不完全な世界を改革するよりも映し出すことにより焦点を当てているように思われるのだと、ヴェイパーウェイヴの弁明において言いうる。それはいかなる解決策を提示することもできないかもしれないが、メディアによって作り出されるイメージがわれわれを現実から疎外し、われわれが変えることができない(と考える)不完全な環境で真似ることの一手段として、われわれのなかの少数が自意識過剰のアイロニーに陥ってきた政治的領域をほぼ完全に表現している。かかるやり方で世界を表象するなかで、VektroidINTERNET CLUBInfinity FrequenciesEco Virtualといったアーティストたち(ならびにBandcampのタグで見つかるその他大勢のヴェイパーウェイヴの演じ手たち)は、シチュアニストのような急進主義者たちと手を携えてきたその一方で、アイデンティティ・ポリティクスの諸目的が実現される差別のない社会的ユートピア[social utopia]を半ば真摯に呼び覚ましてきた。このような並置によってヴェイパーウェイヴは矛盾し曖昧なものと見なされるため、十分に進歩的でリベラルなものとしての資格をそれでもなおこのジャンルに与える。少なくとも、そのことは21世紀に現れているエレクトロニック・ミュージックのなかで最も興味をそそる支流の一つとしてのその評判を傷つけることは何もしまい。

—Simon Chandler

Translation: Takashi Kawano

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