SIDミュージックをいかに辿るか

最近、円秀さん、Rei8bitさんからそれぞれ、Commodore 64の音楽のディグの仕方について尋ねられたので、個人的経路――何を標識にしてきたか――をまとめてみました。雑誌メディアもディスクガイドも特集せず、DiscogsやShazamでも掴まえられない、ストリーミングサーヴィスもBandcampも全貌を伝えない音楽をどう追跡するか。

Rei8bitさん、円秀さんへ

SIDミュージックのエコノミーを知る

インターネット上でCommodore 64(以下、C64)の音楽=SIDミュージックにヒットするのは簡単だと思うのですが、その各々がどのような文脈を踏まえてこちらに提供されているのか、しばしば省略されていて不分明です。したがって、それを追跡しディグするには、ある程度、この音楽の長年の特殊な頒布・流通について押さえておく必要があるだろう、というのが私の見方です。
長年といってもどれくらいでしょうか。約四十年、時を遡らねばなりません。というのも、現在まで連綿と受け継がれるC64(Amigaもそうですが)の音楽の起点は、当時の商用ゲーム開発だからです。とりわけヨーロッパ、なかでもUKが当初重大な役割を果たしたと先回りしていっておきましょう。
日本のゲーム音楽、というより日本のみならずいわゆる「VGM(Video Game Music)」が話題になる場合、タイトル、会社(パブリッシャー、デベロッパー)、作曲者個々人、さらにサウンドトラックのリリースの有無が引き合いにだされるのが一般的なのは、想像しやすいかと思います。しかし、そのどれもC64において、初めから話題にできることではありませんでした。1982年から84年まで、C64におけるゲーム音楽は、共通の話題を設定するインパクトに欠けるものでした。そもそも、それはゲーム専用機として開発されたわけではありません。音声機構を備えた廉価なホビー・コンピュータの用途のひとつが市場に後押しされ、実質的にゲーム機に「なった」のです。適切な音量と音程で、ほどよい長さのBGMとSEが鳴るのも当たり前ではありませんでした。そこが同世代のゲーム機、任天堂のファミコン(ファミリーコンピュータ、以下FC)と異なる点です――C64の発売は1982年、FCの発売は1983年、なお日本のアーケードゲームは海外にも輸出されていましたが、NESが販売され出したのはUSでは1985年、ヨーロッパでは1986年からになります。したがって、「ゲーム音楽」「ゲーム音楽家」「サウンドトラック」等の機能も概念も、C64商用ゲーム市場は一から築きあげなければなりませんでした。ファーストパーティであるCommodore社もゲームを開発・発売していましたが、任天堂の「スーパーマリオブラザーズ」のような抜群に牽引力のあるタイトル、模倣作の創造を刺激するタイトルは当時現れなかったといってよいでしょう。

■BGMとSEがプレイ中に鳴る、という仕様はC64用ゲームでは標準ではなかった。

VGMスターの誕生

では誰がヨーロッパのホームコンピュータにおけるゲーム音楽の先駆者になり、ひいてはゲーム音楽家のロールモデルの役割を果たしたかというと、UKのRob Hubbardという人です。hallyさんは彼を古代祐三さんになぞらえたことがあったはずですが、そのくらいの生けるレジェンドといっても過言ではない(自らのファンである若い世代との交流に積極的なのも、古代さんと似ているかもしれません)。スタジオ・ミュージシャンの経験があり、サウンド・プログラミングも可能な彼によって、Hubbard以前以後を截然できるほどに、C64のサウンドチップ、SIDの運用が大きく変化したのです。アセンブリ言語を独学で習得していて、アナログシンセも演奏できた彼のアドヴァンテージは当時途轍もないものでした。
Hubbardのサウンドの革新性はさておき、彼はVGMをゲーム本編から独立して扱うことを促したカリスマでもありました(コンピュータ雑誌に若きスター・プログラマの記事が掲載されるような時代でした)。どういうことかというと、Hubbardは行儀のよい端正な曲も制作できたけれど、本編に必ずしも沿わないような「ソロ」を含んだ楽曲、長尺の楽曲(10分を超える大作も存在する)、ポピュラー音楽や日本のアーケードゲームの移植元のBGMのフリースタイル・カバーをやってのけた――当時は私たちがBGMという呼び方で一括しまうゲーム内音楽 in-game music への優先度が低く、まず楽曲が付けられることが要請されたのは、タイトル画面と、当時の主要メディア(カセットテープおよびフロッピーディスク)でプログラムを起動するまでの長い長いロード時間です。つまり、ゲームプレイ中にバックに流れる音楽としての機能性を逸脱し、むしろコンピュータ音楽においてかつてない自己表現を実践してしまったのです。ゲームを裏切る(?)ことによってゲーム音楽家に生成したと、アイロニカルに表現できるかもしれません。それゆえタイトルがその面白さでなく、音楽にゆえ記憶されることもままありました(あえて野卑な言葉を使えば、「クソゲーだけど神曲」というようなことです)。また、彼はフリーランサーだったことによって、様々な会社――当時の8-bit機用ゲーム開発はひじょうに小規模であり、おおよそ二~四人のチームといったところで、時に一人でも完結します――から引っ張りだこでした。そして、ゲーム開発のためにゲーム音楽家のネーム・ヴァリューが要請されるという現象を早々につくりだしたのです。今でも新作発売のさい、「サウンドトラックは〇〇を手がけた××担当」という呼び文句を目にしますよね。この、企業専属ではなく自営業者であったという特徴も覚えておいて下さい。

■Chris Abbottの尽力によりRob Hubbardは幸運にも9枚組のCDセットまでリリースすることができた。

Formula 1 Simulator / Rob Hubbard (Mastertronic, 1986)

商用ゲームの時代

1955年生まれの年長者Rob HubbardがC64に登場したのが1984年で、1988年にはそのプラットフォームから抜け出します。1985年からおおよそ1987年が活動のピークで、その頃は今でいうインディな小規模なゲーム開発で「一発当てる」ことに夢もありました。まさに同時代、UKおよびアイルランドから、C64におけるゲーム音楽家の第一世代が出てきます。若かった彼ら(Hubbardより十歳以上、年が離れていた)こそ、まさに新進気鋭と呼ぶにふさわしく、兄貴分Hubbardの技術と音楽の力は他の作り手をも支え、励ましたのです。若手とは具体的に誰を指すかというと、Ben Daglish、Antony Crowther、Martin Galway、Fred Gray、David Whittaker、Mark Cookseyといった人たちです。Daglishを除けば、彼らはコンポーザーであると同時にサウンド・プログラマーであったことが共通しています(DaglishとCrowtherはチームでゲーム開発を行っていました)。そこに少し遅れて、UKにおいて、Martin Walker、Jonathann Dunn、Matt Gray、Neil Baldwin、Geoff Follin、Tim FollinらがC64ゲーム開発に参入する。ドイツからはChris Huelsbeckが登場する。Follin兄弟とHuelsbeckはここまで言及したなかでは、比較的日本で名の知られているゲーム音楽家でしょう。
順番が前後してしまいますが、私がC64の存在を知ったのはTim FollinのFC/NESの仕事を通してになります。彼がかつて運営していたホームページにおいて、自身の過去の仕事が紹介されていたのですが、そのなかにZX Spectrum、Commodore 64という聞きなれないコンピュータの名がありました。その次に、どうやらC64のVGMの方はすべて、1996年から開始された「High Voltage SID Collection」(以下、HVSC)というSIDミュージックのアーカイヴにまとめられているらしい、ということがわかりました。1994年にCommodore社が倒産したせいもありますが、このコレクションは、その量も凄まじいのですけれど、商用ゲームのサウンドトラックも、アマチュアが制作した音楽も両方まとめられてることに衝撃を受けました。HVSCの長年の営みはファン主導のものですが、C64ゲーム開発者の協力なくしてはありません。その文脈については、後でまた触れましょう。
HVSCを通じて、Follin兄弟の他の作品を私は聴くことができました。すると、自分の知らない電子音楽に圧倒されつつ、学習と紹介も兼ねて、VGMから集中的にたどってその成果を動画に残すことにしました。まず、C64において誰が著名なコンポーザーか、まるでわからなかったので、C64 VGM史を調べることから始まりました。また、日本のゲーム音楽において、とりわけストリーム以前は、サウンドの特徴がゲーム会社に強く関連付けられていたと思うのですが(例えば「コナミ」サウンドといった形容があります)、そういったことがC64にも妥当するのではないかと当て込み、デベロッパーとパブリッシャーで絞り込んでコンピレーションも制作することにしました。そのさい、「Lemon64」のようなゲームレヴュー・サイトからは、私の全く知らないC64のゲームについて多くを教わりました。
私のコンピレーションは網羅的ではないですが――ヨーロッパ中心になり、Activision、Epyxといったアメリカの会社に広げられず中断してしまいました――、それでもC64のゲーム音楽を語るさいに名を挙げなければいけない人たちは、一通り含まれているはずです。音質はひどいものですから、YouTubeでも何でも、ネット上の他の優れたコンピレーションを探していただけたらと思います。

話は戻りますが、C64の商用ゲームにおいて「サウンドトラック」は自明のものではありませんでした。「フル・サウンドトラック」を提示した画期作が、1987年にSystem 3から発売された「Last Ninja」で、先述のBen DaglishとAnthony Leesが音楽を担当しています。11曲48分というヴォリュームは今日からみてもリッチです。むろんC64ゲーム史がみた場合、例外的大作ではあるのですが、こうした模範あってこそ、より小規模なかたちであれ「サウンドトラック」への意識を後継タイトルの間で高めることになったのは間違いありません。
日本でVGMのサウンドトラックというと、その嚆矢に挙げられるのが細野晴臣さんがプロデュースした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1980)ではないでしょうか。しかし、本作に相当するフィジカル・リリースの潮流はヨーロッパではけしてメジャーになることはありませんでした。大分後になって、やはりUKのChris Abbottという人が「C64Audio.com」というレーベルを起ち上げ、リミックス(主にDAWを用いたカバーやリメイク)を中心にC64のゲーム音楽に関するリリースをしていくのですが、それも1990年代末になります。ちなみに、C64Audio.comは純粋な音楽レーベルというより、「レジェンド」をフィーチャーしたVGM再生プロジェクトのようなものへと展開していきました。
2001年に『Input 64』というコンピレーションがリリースされ、2007年にはBinary Zone InteractiveがいくつかVGMを編纂しますが、サウンドトラックCD文化が定着するにはどちらも遅すぎる試みだったかもしれません。
少し補助線を引けば、C64やAmigaには、日本のVGMのようにカバー文化があります。前者の中心が、「Remix.Kwed.Org」です。このサイトは、私たちに馴染みのないVGMで、一体何が親しまれてきたのかを知る指標になってくれます。「OverClocked ReMix」のローカル・ヴァージョンといったところです。

偉大なるリッピング・カルチャー

では、C64ユーザーは私たちがサウンドトラックCDを聴いてきたように、どのようにしてVGMを「ゲームから切り離して」楽しんでしょうか。実のところ、若きコモドール・ユーザーの間では、リッピング ripping という行為があったのです。rip という動詞にははぎ取るという意味があり、rip off だと他人のものを盗用する、パクるといった意味になります。リップされたデータのこともリップと呼びます。リッピングは権利保持者からするとネガティヴな複製行為に映ることでしょう。しかしエンドユーザーもまた自ら好きな音楽を任意に楽しみたいために、ゲームを起動せずにお気に入りの音楽を抽出する方法を選んだのです(なお、国産ゲームにおいてもBGMリッピング・プログラムは存在しましたし、ニコニコ動画やYouTube等に勝手に投稿されている様々なゲームのサウンドトラック――に限らず――も「リップ(のリップ)」には違いありません)。
さて、ゲーム本編から音楽だけをはぎ取る行為は、それをゲームに限らず別のプログラムに「着せ」なおしたり、あるタイトルと別タイトルの音楽をまとめたり、転用する可能性を生みます。かくして、エンドユーザーは任意にゲーム音楽のコレクションを編集しました。ちょうど、お気に入りの曲からなるカセットテープ、MD、CDRを私たちがかつて(今も)編集したように、現在ではいつでもお気に入りの曲を呼び出せるようプレイリストを編集するように。こうした制作物の形態は、Music Collection あるいは Music Pack、Musicdisk と呼びならわされ、それら名称はオリジナル作品にも適用されます(場合によってニュアンスが異なることもある)。
インターネット以前、UKでは専用モデムを用いたCompunetという小規模なネットワークで、この種のMusic Collectionが投稿、交換されていましたし、リップされたVGMを転用したプログラムすら投稿されていました。驚くべきは、Rob HubbardやBen Daglishも商用ゲーム開発に携わりながら、アンダーグラウンド要素のあるCompunetに出入りしていたことです。そのなかにはLlamasoftのJeff Minterもいました。CompunetはUKデモシーンの始まりといわれるコミュニティです。こうしたゲーム開発者の二面性はヨーロッパではめずらしいものではありません(デモシーンの方ではハンドルで呼び合うのが常ですし、Compunetも各自ハンドルを持っていました)。ある種のネット音楽鑑賞の試みがあったことが、HVSCの思想の源流になっていることが見て取れるでしょう。

■Rob Hubbardが1986年にサウンドト持っている当した「Thrust」は、同年、リップされて別のプロダクションに用いられた。Compunetに投稿された著名なデモ。

Thrust Concert / Stoat & Tim (1986)

Robに倣いて

制作サイドに視点を移してみましょう。Rob Hubbardらがまさに出てきたとき、アマチュアにとって、作曲手段はBASIC言語でのプリミティヴな打ち込みか、商用音楽ソフトウェアのほぼ二択でした。Hubbardを始めとするゲーム音楽家たちは、C64の音楽的可能性を披露しますが、その手段はいまだユーザーの手に渡っていません。しかし、前述のように、音楽を独立して楽しむ人たちはいた。
繰り返しになりますが、ミュージックルーチン(サウンドドライバ)は必要に応じて開発されたものである以上、コーダーやメーカーに独占されている状態です。では、それを解析して公開する人がいたらどうでしょうか。その音楽はHubbardのものと似た響きなを持っているのではないでしょうか。さらに商用音楽ソフトウェアのようなインターフェイスが現れたらどうなるでしょうか。ここからトラッカー・カルチャー登場までもう一息です。
ドイツのChris Huelsbeckは1986年、先駆的にゲーム音楽制作のために開発した自家製ツール「Soundmonitor」をコンピュータ雑誌で公開するや、他人によって勝手にバグ修正や改良が加えられ、分枝していきました。焦り気味に付け加えれば、トラッカー・カルチャー、トラッキング・シーンとは制作手段とミュージックルーチンの共有というか公有であり、共同の財産を(ときに盗みながら)創造し、集まる人たちによってなるものです。ツールの選択がコミュニティの基盤になり得ることは、Reiさんもきっと体感していることでしょう。

■オランダのJeroen Kimmel、ノルウェーのGeir Tjelta、デンマークのFuture Freak等はHubbardの音楽を逆アセンブル、あるいはミュージック・ルーチンをリップした。前二者はゲーム音楽家でもあった。

Red Hubbard / Jeroen Kimmel (Red Music Software, 1986)

Maniacs of Noise以後

先のリッピングにもみたような、この「勝手さ」こそ古くから存在するデモシーンの欲動です。デモシーンについてここで詳述することはしませんが、ディグの上で重要なのは、「偉大なアマチュアたち」からなるデモシーンが、原則非営利目的で、グループベースでの活動と分業を重視していることです。グループを通して個人のタレントが輝く、という見立てです。したがって、アマチュアの電子音楽シーンが開けたからといって、個人によるアルバムがリリースされることは滅多にないのです。所属グループは音楽レーベルのようなものと少々、いや大分性格が異なることに注意して下さい。
むしろ、「デモ」という共同制作物のために、リップされたゲーム音楽ではない、オリジナルの楽曲を制作可能な人間が要請されるのです。このあたり、セリフリリースが容易な現代と事情が異なります。あるリリースに用いられた曲が別のリリースに転用される、第三者のMusic Collectionに編入される、といったことはデモシーンにおいて基本的に作曲者のステータスになります。
ゲーム業界においてゲーム音楽家が要請されたように、デモシーンにおいても創作物のために音楽家が要請される。この点において特筆すべきは、C64のゲーム業界も徐々に下火になるころ、イリーガル寄りのデモシーンとも接点をもちながら、商用タイトルのVGM制作も請け負うManiacs of Noise(以下、MoN)という集団(Music Company)がオランダから出てきたことです。Charles Deenen、Johannes Bjerregaard(彼はデンマーク出身です)、Jeroen Tel、Reyn Ouwehand――ゲーム機としてのC64が現行機を引退しようとするまさにその時、新風を吹かせた彼らの登場をもってC64 商用VGM史に区切りをつける(1991年、92年をひとまずの終点とする)のが一般的といってよいでしょう。実際、Chris Abbottも協力した、フィジカル・リリースもされた比較的新しいSIDミュージック・アンソロジー『SID Chip Sounds - The Music of the Commodore 64』にはそうした史観が反映されています(Telらの華やかさに隠れがちではありますが、同じころ、UKから登場した特筆すべきコンポーザーとしてMatt FurnissとMatthew Simmondsを挙げるべきでしょう)。

■MoNはデモシーン譲りの音楽デモで仕事を募った。プロモーションの成果もあってか、C64を超えてあらゆるプラットフォームのサウンドトラックを担当することになる。

Cybernoid Music / Mniascs of Noise [Code: Charles Deenen, Music: Jeroen Tel] (1988)

重要なことですが、C64商用ゲーム市場の衰退と同時にここから、非営利的活動を基本とするデモシーンを中心に、本格的にC64ミュージック・シーンが進展していくのです。その時大きな模範となったのが、先のHubbardやDaglishのように商用ゲーム開発とアンダーグラウンドでの活動と二面性を持つManiacs of Noiseにほかなりません。
1980年代後期から現在まで、C64シーンではいくつか音楽グループが存在してきました。具体的には、Soedesoft、F.A.M.E.、Moz(IC)art、Vibrants、The Imperium Arts、Prosonix、Blues Muz’、Tinnitus、Viruz、Samar Productions、MultiStyle Labs等です。純音楽グループは全体のなかで希少ですから、だからこそ私には特別に思えました。面白いのは、C64デモシーン全体にもいえることですが、商用ゲームの時のようにUKのプレゼンスは強いとはいえないことです(ヨーロッパからは遠く離れたアメリカやオーストラリアはさらに弱い。それほど80年代から90年代にかけてヨーロッパがデモシーンの中心でした。現在はトラッカーを用いるアメリカのチップチューン・ミュージシャンがいることが自然にみえていますが、これはもっと後の時代をまたねばなりません)。これら音楽グループのベースとなる国も、デンマーク、ドイツ、ポーランド、ノルウェーといったところです。もっともインターネット普及以後はメンバーがより国際的になっていきます。

ディグのポイントいくつか

SIDミュージックをディグするなら必然的にグループに着目することになります。まず、何を調べるにせよ、「The Commodore 64 Scene Database」(以下、CSDb)に立ち返ることになります。どういった人が、どういった曲がポピュラーなのか、いくつかのポッドキャストも私は参考にしてきました(「BitFellas: BitJam Podcast」「The C64 Take-away podcast」等)。デモパーティ等でのコンペティションの順位、またプロダクションの評価(CSDbのチャート等)はしばしばバイアスが強く表れるので、あくまで目安にとどめるのがよいでしょう。特に後者は時代が下るにつれインフレ気味の傾向があります。インタヴューも大事な資料です。「好きなSIDミュージシャンは」といった質問は必ずあるはずですから、影響関係や知名度の指標を知ることができます。
90年代SIDミュージック・シーンを知るために、ドイツのCP Verlagという会社が刊行していたフロッピーディスク・マガジンに掲載されたゲームを調べることもしました。大文字の商用ゲーム以降に登場したこれらミニゲームの制作者は、実はデモシーンと密接に結びついた、ヨーロッパの10代~20代の若者でした。完全版と呼べるものではありませんが、この調査は三つのコンピレーションにまとめました。
80年代末から90年代にかけてのSIDミュージックの多産性を支えたのはミュージック・エディタです。Rockmonitor(1987)、Music Assembler(1989)、Voicetrakcer(1990)、DMC(1991)、JCH(1991)等のソフトウェアは、複雑なサウンド・プログラミングなしに容易かつ高度な作曲環境へのアクセスを可能にしました(いずれの年も初期リリース)。VGM時代から新たに、ツール毎のミュージックルーチンでSIDの鳴り方に幅があることを学び、そのプロセスが終わりのないものであることにSIDミュージック・シーンの比類のない特徴があります。なお、SIDシーンで現役のトラッカーの機能比較をするなら、JCH Editorの作者Chordian=JCHによる表が極めて有用です。

■VibrantsのJCHが制作したエディタでは、SIDミュージック特有のファンクが開花した。ツールが音楽ジャンルを誘発した興味深い例。

Canes / Scortia (1991)

余談――チップミュージックの自営業化?

SIDミュージックの話題から一旦外れます。以上の大体2000年前後から始まるチップチューン現象以前のSIDシーンは、大分長い間、当事者の間で「チップチューン」あるいは「チップミュージック」を制作している意識は希薄であったことに注意して下さい。そうした意識が芽生えるのは、個人アカウントからストリーム形式かつタグ付きで楽曲を発表するのが一般化して以降のことになります。
チップチューンはデモシーンよりも個人ベースの活動を強力にプッシュしました。さて、そのさいキーであったのがフィジカル・コンソールです。ゲームボーイで動作するシーケンサーとして、1998年にOliver Wittchowによるnanoloopが、2000年にはJohan KotlinskiによるLSDjが登場し、これら実機で動作し、ライヴ可能なソフトウェアがチップチューンの隆盛とを支えたのは間違いありません。しかし、チップチューン現象は実機主義、あるいは純正主義 Purism と等号では結ばれません。どういうことかといえば、同時期のエミュレーションの進展がこの界隈への新規参入者やプラットフォーム間の交通を用意したのです。ここ二十年間のSIDミュージックの層の厚さを支えたGoatTracker(以下、GT)のリリースが2001年、FC/NES周辺では、mckが2002年、nerdtracker iiが1999年、FamiTrackerが2005年。間違いなく、GTによってSIDミュージックは再発見されることとなりました。デモシーンのイベントに関係なく、CSDbに音楽を単独でリリースするという現在も続く習慣は、GTによるところが大きい。
チップチューン・シーンは居住地周辺のローカル・シーンとの結びつきもありつつ、比較的インディペンデントな個人の集まりに見えていると思いますが、それは私からするとけして当たり前ではなく、徐々にかたちを変えていったものです。そのために前記のようなツールと、制作物を発表するサイトが重要な役割を果たしてきました。チップチューンに特化したサイトでは、micromusic.net(1999-)、8bitcollective(2004-2011)、Battle of the Bits(2005)、μCollective(2010-休止中)、ChipMusic.org(2010-)――これらを見ても(さらにこの他に、IRC、facebook、yahooグループ、Discordが加わり)、グループベースではなく個人ベースでの活動がチップ・シーンでは強められてきたことが認められます。チップ・ミュージシャンはアマチュアにとどまらず時間をかけて自営業化していっています。ただ、その道はまだ決定的に定まっておらず揺れ動いているようにみえます。

ネットレーベルについても触れておきましょう。今やその例に限りがないことから最早透明化してしまっていますが、その呼称が新鮮に響いた時代があったことは想起しておいてよいでしょう。インターネット前夜から黎明期、今よりネットインフラが整備されておらず、ネット決済も発達していない、さらにオンラインでの交流がSNSに一元化されない時代のことです。ネットレーベルが制作物のホストとプロモーションのため、現在より重要視されました。デモシーンにおけるグループの役割に重なるものがありますし、実際一部のグループはネットレーベルとして活動しました。レーベルが頒布するのはmp3フォーマットか「軽い」ユニーク・フォーマット(トラッカー・モジュール含む)でした。場合によってCDRの郵送をするといったところです。
SoundCloudとBandcampのサーヴィス開始が2007年。ここからネット上では個人プロモーションの比重が急速に拡大した、という印象を私は持っています。YouTubeアカウントにしろ、個人で獲得できる。こうした音楽頒布手段の影響を、SIDミュージックも被っています。手続き上、グループベースの活動から離れ、自分の音楽を「外」へアピールする必要が出てきます。セルフリリースが簡単になり、非営利という原則も外れる。少し天邪鬼な言い方をすれば、タグによって半ば強制的に音楽をアピールし、タグによって音楽をたどる事態が訪れました。
旧形態のネットレーベルの衰退、個人ベースでの発表媒体が多様化かつ容易になることにより、チップ・シーンと同じく、セルフリリースをするSIDミュージシャンも徐々に増えています。

SIDファイルをめぐる

最後に、再びHVSCへと戻っていきましょう。SIDコレクションの名の示す通り、ここに収録されている「.SID」という標準フォーマットは実のところC64ネイティヴではありません。そもそもは90年代前半、AmigaでのSIDミュージックの再生を目的に二人のスウェーデンのコーダーが発明されたものに由来しています。つまり、クロスプラットフォームを前提に最適化されたリッピング・フォーマットなのです(興味深いことですが、SIDミュージック風の音をchipやchippyと形容する慣習はC64シーンからではなく、Amigaシーンから登場し、chiptuneは制作技術とともに一個のサブジャンルとして定着することになりました)。そして、HVSCはばらばらなクオリティの同一の楽曲のリップを後世のために排し、発掘や新作収録も含めて決定版となるリップを多機種多OSで聴くことができるために活用可能な、80年代から個々人が継続してきたリッピングの集大成であるというわけです。VGM作者当人も含めて、大勢の協力あって、三十年近く更新されています。

■PHS(Per Håkan Sundell)とIl Scuro(Ron Birk)による1990年にAmigaでリリースされたC64 VGMのMusic Collection。これもまたリッピングにほかならなない。Hubbardの音楽の他プラットフォームへの移植例として、Mad Max(Jochen Hippel)が1988年にAtari STでリリースした「B.I.G. Demo」もある。

The 100 Most Remembered 64 Game-Tunes / Per Håkan Sundell & Ron Birk (1990)

■4-mat(Matthew Simmonds)はサンプラーに短い波形を1ループ読み込ませ「チッピーな」音を鳴らす手法を開拓した一人。このモジュールのモティーフがRob Hubbardの「Formula 1 Simulator」であることは明らか。

L.F.F / 4-mat

SIDファイルは曲名、作者名、リリース年等、最低限のタグが付けられていますが、カバーアートやライナーノーツが完備しているわけでもありません。リップである以上、ひとつひとつの背景と文脈からの切断が起きていることに留意して下さい(STILというHVSC付属のドキュメントがそれらを若干補ってはくれますが)。闇雲にSIDファイルを漁るのも面白いものですが、リリースの形態と場所(イベント)、当時のポピュラー音楽からの影響、同じ作者がカバーしている曲、使用ツール、交友関係、タイトル、これらを総合してSIDミュージックの布置を自分なりに構築していく必要があるでしょう。CSDbはそのために必須ですが、データベースなりに味気ないところもあるので、再度、ポイントを紹介します。
まず、HVSCをアルファベット順に聴いていってもきっと退屈してしまいますから、手掛かりとなる好きな楽曲をいくつかと、ファンになれる音楽家を偶然にでも最初に見つけられるとよいでしょう。誰か特定のコンポーザーを追いかけるなら、多作かつコミュニティでよく発言している人、ファンが多い人が最適でしょう。なぜなら、その人自身と周囲の「テキスト」こそ重要な資料だからです。
同時に、ポッドキャスト、コンピレーション、YouTubeの楽曲紹介アカウント、音源化されていない他人のプレイリスト(「DeepSID」で閲覧可能)をわたっていけば、自分の感度にフィットするSIDミュージックの振れ幅に出会えるでしょう。SoundCloud、BandcampでもそれなりにSIDミュージックが投稿されていますが、サーヴィス成立年代や登録者の偏り、登録楽曲の制限等が足かせとなって、これらを拠点にディグするのは向いてないかもしれません。付け加えて、SIDミュージックを一度で網羅できるプレイリストやコンピレーションは「あり得ない」ので、編者ごとに傾向やプロダクションのコンセプトを何となくでも押さえておくとよいでしょう。
またSIDファイルでなく、個々のデモ等のサウンドトラックから入る経路もあります。現在主要なC64デモはYouTubeで視聴できます。初期デモシーンならともかく、コンペティションで入賞を狙うデモはサウンドに手を抜かないし、大舞台ほど力の入ったオリジナル楽曲を用意してくるものです。

唐突ではありますが、このあたりで終えます。ヨーロッパ圏外のSIDミュージック、MIDIデバイスを使用したSIDミュージックについては触れませんでした(後者に関しては下部のドキュメントのなかでアルバムをいくつか選んでいます)。機会があればまたどこかで、別のかたちで。

2023/5/28 細部字句修正。

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