自由の意味とアカデミズムへの嫌悪感:創作のための時事問題勉強会48

※注意
 本記事は時事的問題について、後で振り返るためにメディアの取材や周囲の反応を備忘録的にまとめたものです。その性質上、まとめた記事に誤情報や不鮮明な記述が散見される場合があります。閲覧の際にはその点をご留意ください。


事例概要

発端

当時の感想

個人見解

前言

 反知性主義がはびこり、知識を持つものを馬鹿にすることが常態化した現代において、アカデミズムへの批判はなかなか難しい。どれだけ妥当な批判でも、反知性主義者の馬鹿どもに利用されかねないし、反射的に自身をも反知性主義者にカテゴライズされかねないからだ。ゆえに今回の言及に際し、あらかじめ申し添えなければならないことがある。

 私がアカデミズムに対しある種の嫌悪感を抱いているのは事実だが、それは反知性主義から発せられるものではない。そもそも私は大学院まで出ている人間なので、くくりで言えばむしろアカデミズムに近い位置にある。私がアカデミズムに対し嫌悪感を抱くのは極めて個人的な経験に端を発するもので、反知性主義のそれではない。むしろアカデミズムや知性理性の価値を重んじるからこそ、ある種の嫌悪と憎悪を抱いていると言える。

 もっと簡単に言えば、ここから先の話は個人的な経験によって私が「嫌悪する特権」とでもいうべきものを獲得したからこそのものであり、それを他人が利用することは正当ではない。

幼稚さ

 さて私がアカデミズムに対して抱く嫌悪感はいくつかあるが、ここでは幼稚さという言葉でいったんまとめておく。アカデミズムを構成する研究者はある種の幼稚さを持っていて、そのために他者を害することが往々にしてある、ということに関する嫌悪感である。

 例えば上記の具体例において、この大学教員が見落としているのは何だろうか。権力の不均衡である。大学教員が「鍋をしても自由」と大学教員の立場で語ることが持つ「強さ」のようなものに対し無自覚であるということだ。

 講義はその教員の裁量におおむね任されている。無論シラバス等のあらかじめ想定された講義計画から大幅に外れることは問題があるだろうが、あの教室内においてすべての権限を持つのは教員であると言える。その教員が「鍋をしてもいい」と発言した、許可した場合、その許可に沿って鍋をすることは自由だろうか? 

 ここで語られる「自由」とは一般的な語彙の意味より少し観念的なものだ。学生が鍋をするか否かは結局学生の手に委ねられている……という意味での「自由」ではない。講義中の行為として本来想定されず、教員など講義の監督者がおよそ許さないだろう「鍋をする」選択肢が学生に存在しうるのだという意味での自由だ。それはさながら政治家がオフレコだと言ったことをジャーナリストが報道するような、政府が隠した文書を官僚が公開するような、そういう意味での自由である。

 こうして考えれば分かる通り、ここで想定される「自由」とは当然大学教員が自身の講義の場で「鍋をしてもいい」と認めることでむしろ消滅する自由である。その空間の権力者が認めたのだから、鍋をすることが持つ観念的「自由」はすでにない。鍋をしたところで非難されもしないし罰せられるわけでもないからだ。

 この鍋の幼稚な点は、自由の意味を確認する行為だとして鍋を称揚する教員も、その許可に沿って鍋をする学生も自身が確認しようとしている観念的「自由」の意味を完全に喪失している点である。その場の権力者が認め、それに追従する形で行われる鍋に一体全体、どういう「自由」の象徴的意味があるというのか。

学生からの接続

 どうして大学教員という立場にありながら、ここまで幼稚なレベルで自身の持つ権力性に無自覚なのか。私は私自身の経験からその原因の一端を「学生気分」ようなものに見出している。

 よく「教師は学校しか社会を知らない」と言われている。これはおおむね学生の子ども時代の戯言として処理されがちだが、ある一面では事実である。学校を職場として選ぶ時点でその人間は学校を忌避しない程度のポジティブな印象を学校に持っている。それならば、あえて外部の他のコミュニティと比較し相対化や客観視の必要も薄い。好意的に見ているものをわざわざ批判的に見直す人間はそう多くない。ゆえに、学校という閉鎖空間に対し一定程度無批判な人間が、学校コミュニティの維持を担うわけだ。

 小学校から高校の教員でさえそれなので、実のところ大学教員というのはさらにその要素が強烈にある。なにせ一般的に大学を卒業する年齢でまだ学校にいるくらい学校にポジティブな側面を見出している連中なので。さらに大学院生は年下の大学生と絡むことが多く、結果的に自身の年代感覚に疎くなりやすい。これは私自身の経験からそう判断していることだが。

 ただでさえ閉鎖的コミュニティを相対化する機会を失い、その上で世代感覚を欠如すれば、本来「教師」として持ちうる権力に無自覚なのも無理はない。彼らは一定程度こそ教師という立場に自覚的だが、同時に一定程度は学生という身分から自己を切り離しきれていない。大学に通い、大学院に通い、そのまま大学に勤めるのだから。本来なら社会から無理矢理、強制的に切断される学校という舞台から離れないのだから学生気分を抜くタイミングに乏しい。

 繰り返しになるが、私が語るアカデミズムへの嫌悪や憎悪は私個人の経験に端を発する。私がアカデミズムに嫌悪を抱き表面上は反知性主義者みたいな言動をしたとしても、それは私の人生経験で負った損失から導かれる妥当な損害補償としての権利に過ぎない。ノータリンの反知性主義者が私の嫌悪や憎悪を利用することは妥当ではないし許されることではない。

 まあこう言っても利用されるときは利用されるので普段は発言を控えているのだが、たまにはいいだろう。アカデミシャンの「己は賢明である」という自己認識に唾を吐けるタイミングがあったら吐いておかないとストレスがマッハなので。

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