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映画祭のマネジメントの研究10:短編映画祭の意義

映画の起源は短編映画

1895年12月28日にフランスのリュミエール兄弟が初めて映画をパリで人々に有料公開して以来、約10年の間は、映画はそもそも短編しか存在しませんでした。

例えば、リュミエール兄弟が製作した世界初の実写映画といわれる『工場の出口』(La Sortie de l'usine Lumière à Lyon)や、蒸気機関車が駅に到着する様子を撮影した『ラ・シオタ駅への列車の到着』(L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat)はいずれも1分足らずの無声の記録映画です。

その後、物語構成を持った映画として、ジョルジュ・メリエス監督のフランス映画『月世界旅行』(Le Voyage dans la Lune)(1902年)や、エドウェイン・ポーター監督による『大列車強盗』(The Great Train Robbery)(1903年)が撮影されましたが、やはりこれらも15分以内の作品でした。

米国では、こうした短編映画は20世紀初頭に現れて流行となったニッケルオデオンと呼ばれる規模の小さい簡易な映画館で上映されました。

上映時間が70分を超える映画が現れたのは1906年になってからです。それ以後、長編映画が映画興行の主流になり、短編映画はニュース映画、文化映画、教育映画、産業映画を中心に製作が続けられていきます。

人材育成

20世紀の前半、映画産業は急速に発展を続けていきましたが、1960年代以降、家庭にテレビが普及するに従い、映画産業は成長から縮小へと転じます。

日本国内の映画館への入場者数は1958年の11億2745万2000人をピークに、それ以降の10年間で3分の1以下にまで落ち込みました(一般社団法人日本映画製作者連盟『日本映画産業統計』)

1970年代以降も映画人口は減少が続き、大手映画会社は助監督の採用を中止するに至ったのです。

こうした動きは日本に限ったことではありません。米国では1960年代の映画館の観客数は1950年代のほぼ半分に落ち込み、1963年には史上最低の年間製作本数(121本)を記録します。

多くの負債を抱えるに至ったメジャー・スタジオは1960年代に次々と映画以外の巨大産業に吸収・合併されていきました。

こうした経営形態の変質によって、映画会社は各々の伝統的特色を失い、映画のプロを養成しては継続的に働く機会を与える保護機能を失いました。

そのため、映画監督を志す者は、映画会社に就職して、映画監督に昇進するというコースを歩むのではなく、自主制作映画を撮って発表することによって、自らの才能をプレゼンテーションしていくという方法に活路を見いだすことになります。

そうした背景と相まって、映画祭の人材発掘及び育成機能が注目されてきたのです。特に短編映画は、比較的短期間で制作することが可能であり、作家性を強く表現できる表現手段であることなどから、短編映画祭は、若手監督の発掘機能が大きいとされています。

現存する最も歴史の古い短編映画祭のひとつとされるドイツのオーバーハウゼン国際短編映画祭に寄せられた世界的に著名な映画監督のコメントには、次のようなものがあります。

『水の中のナイフ』や『戦場のピアニスト』などで有名なポーランドの映画監督ロマン・ポランスキーは次のように述べています。

「短編映画は新進のフィルムメーカーになるための偉大な第一歩であり、オーバーハウゼンは映画監督になるための重要なステップだった」

また『パリ、テキサス』や『ベルリン・天使の詩』などを撮ったドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースのコメントは以下のとおりです。

「若い時代、オーバーハウゼンで毎年映画を観るのを楽しみにしていたが、こうした出来事がフィルムメーカーになるという決意に重要だった」


日本国内に視点を転じてみると、国内の短編映画祭では、新人の映像クリエーターを生み出すための人材発掘・育成の仕組みは有効に機能しているのでしょうか。

短編映画と映画祭


短編映画とは、上映時間の短い映画のことをいいます。実際上は、長編と短編を分類するための公式の規定はなく、各映画祭などが独自に分類の基準を定めています

例えば、映画業界における権威のある賞として知られる米国のアカデミー賞では、短編映画賞にノミネートされるための条件として、クレジットを含めた上映時間が40分以下というルールが定められています。

また、オーバーハウゼン国際短編映画祭の国際短編部門への応募条件は35分以内、フィンランドのタンペレ映画祭では、短編部門の応募条件が30分以内となっています。

短編映画祭は、無名若手監督を中心とする映像クリエーターたちの登竜門的存在です。一方、新しい才能を少ないリスクで発掘したいという制作サイドの思惑もあります。クリエーターにとっても映画製作サイドにとっても、短編映画祭は映画人材の発掘と育成の観点からメリットがあるのです。

現在のような映画上映を中心とした形式の映画祭は、1932年に創設されたイタリアのヴェネチア国際映画祭がその起源です。その後、1946年にフランスでカンヌ国際映画祭が開始され、1951年にはドイツでベルリン国際映画祭が誕生するなど、映画祭は欧州を中心に発達してきました。

日本では、1976年に九州の小さな温泉町である湯布院で湯布院映画祭が開始され、大手の興行者が扱わない独立プロの低予算映画などを積極的に支持するところに特色を出しました。この頃から同種の催しが全国的に広まり、地方の中小都市などで無数の映画祭が行われるようになりました。これは従来からあった自主上映運動の拡大化といえるでしょう。

1977年に開始された「ぴあフィルムフェスティバル」は、応募された自主製作映画の作家の中からプロの映画監督を輩出するようになって重要な存在となりました。

1984年からはコンテストの入選者のなかから将来有望と思われる人材に資金を提供して長編を作らせるという制度も設けています。これは日本における映画祭による人材の発掘・育成制度のさきがけといえます。

短編映画祭については、現存する最も古い映画祭のひとつが1954年に西ドイツ文化映画祭として創設されたオーバーハウゼン国際短編映画祭です。

以降、1970年代から1990年代にかけて短編映画祭は世界中で数多く創設され、若手監督の作品発表の場として大きな役割を果たすようになります。

例えば、1979年に始まったクレルモンフェラン国際短編映画祭は、フランスではカンヌ映画祭に次ぐ規模を誇る映画祭であり、映画祭による異文化交流と街の活性化に成功している例として知られています。

そのほか、タンペレ映画祭(フィンランド)、セントキルダ映画祭(オーストラリア)、アシアナ国際短編映画祭(韓国)、パームスプリングス国際短編映画祭(米国)など、短編映画祭は世界中で定期的に開催されています。

映画祭には、上映される映画の認知度を高める機能があります。映画祭に作品を出品することによって、映像クリエーターは自らの才能と実力を広くプレゼンテーションすることができ、コンペティションにおいて受賞すればクリエーター自身あるいは映像作品に一種の権威が付与されることになります。

アメリカ映画は別として、1950年代などは、映画を製作国の国外で上映するのは容易なことではありませんでした。国際映画祭が作品や映画人の発見の場となっていたのです。

国際映画祭がなければ、日本映画やポーランド映画などは、世界的に認知されなかったかもしれません。

また、クリエーターにとっては、映画祭に参加することによって、多くの作品に触れ、また関係者と交流することによって作家の創作に対するモチベーションが高まったり、新たな映画制作の端緒につながったりすることも期待できます。

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