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映画祭のマネジメントの研究8:映画祭の日本史

日本における映画祭の歴史

日本における映画祭の歴史は、1950年代から始まりました。日本の映画祭の歴史も、全期間を5期に分けてみていくことにしましょう。

第1期(1950年代~1960年代)

日本における第1期は1950年代から1960年代です。この時期の映画祭は一般の観客が参加するイベントではなく、業界関係者が業界の活性化を意図として企画したイベントでした。

日本における比較的大規模な映画振興イベントという観点からは、映画祭の歴史は1932年に開催された活動写真展覧会にまで遡ることができます。しかし、この展覧会は映画上映よりもむしろ、映画関係資料の展示を中心としたものでした。

映画上映を主体とした、今日的な意味での映画祭は、1954年に開かれた東南アジア映画祭から始まったといってもよいでしょう。この映画祭は映画会社大映の社長だった永田雅一が主導して開催されました。

東南アジア映画祭が企画されたのは、永田雅一が東南アジア各国の映画市場の開拓と映画人の交流の必要性を主張したことがきっかけでした。社団法人映画産業振興会と各国の映画界からの賛同を得て、1953年に東南アジア映画製作者連盟が結成されました。そして、翌年から映画祭が始まりました。

東京で開催された第1回東南アジア映画祭では34作品が上映され、コンペティションが開催されました。また、各国の映画人との懇親の機会や映画関連施設の見学等も組み込まれ、会期は約2週間に及びました。

この映画祭は加盟国が持ち回りで実施するため、開催国が毎年変更されました。主催は政府などの公的機関ではなく、映画業界であったという点がこの映画祭の特徴です。

一方、同じ1954年には政府主導で教育映画祭が行われました。これは当時の文部省が主催する優秀な教育映画を選定するイベントで、一般上映よりもむしろコンペティションを中心としていました。ここで与えられる賞は、さまざまな教育関係の機関が教育映画を安心して購入、紹介するための目安として活用されました。この映画祭は映画産業の振興を目的として開催されたものだったといえます。

同種の映画祭として、日本科学技術振興財団の主催による科学技術映画祭(後に科学技術映像祭の名称に変更)が1959年に始まっています。この映画祭は当時の科学技術庁が後援しています。優れた科学技術に関する映像を選奨し、科学技術への関心を喚起し、その普及と向上を図ることを目的とするものでした。

1963年に開始された産業映画の質的向上と普及を目的とする日本産業映画コンクールも視聴覚教育の普及を狙いとした同様の形式で行われました 。

その後、イタリア映画祭やフランス映画祭といった外国映画の見本市的な映画祭は開催されてきましたが、本格的な映画祭は1970年まで創設されませんでした。

第2期(1970年代)

第2期は1970年代です。この時期には、日本における初めての本格的な国際映画祭形式のイベントである日本国際映画祭が開催されたほか、長期にわたって開催を続けている映画祭が誕生しています。

1970年の日本国際映画祭は、同映画祭開催の1カ月前に開会した大阪の日本万国博覧会(大阪万博)の一環で行われました。映画祭の主催は財団法人日本万国博覧会協会と社団法人日本産業団体連合会、後援は文化庁、通商産業省、外務省で、映画祭組織実行委員会は大手の映画製作会社や配給会社の幹部で構成されていました。

35カ国が参加要請に応じ、53本の作品のなかから20本が選ばれて上映されました。しかし、このイベントは1回限りのものであり、継続して開催される形態のものではありませんでした。

1976年には、大分県の温泉町である湯布院で湯布院映画祭が始まりました。湯布院映画祭は大分県の映画愛好家の団体が中核となり、日本映画の制作者と愛好家との交流の場を作ろうという目的で始められ、湯布院町の村おこしも兼ねていました。

湯布院映画祭は、温泉町での開催という点でリゾート型の映画祭といえますが、単に映画上映だけにとどまらないイベント性を兼ね備えています。プログラムとしては、毎回特定のテーマに絞った日本映画の回顧上映が組まれ、シンポジウムや日本映画の技術についての講座が設けられるなどの工夫が凝らされています。

湯布院映画祭は映画の一般上映を中心とした定期開催イベントとしては日本で初めてのものであり、その後の日本における映画祭の一形態を作り上げたものといえるでしょう。

日本のインディペンデント映画を奨励してきたぴあフィルムフェスティバルも1977年に始まっています。この映画祭は東映大泉撮影所で行われた映画、演劇、音楽等のジャンルを総合的に扱った「ぴあ展」における自主制作映画展が源流となって始まりました。公的組織ではなくエンターテインメント情報誌を発行していた民間企業のぴあ株式会社が運営しています。

ぴあフィルムフェスティバルは、映画の新しい才能の発見と育成をテーマにしており、コンペティションを含んだ映画祭です。

第3期(1980年代)

第3期は1980年代です。この時期は、バブル経済の影響により、公的資金が地域振興の一環として分配されることで、主催側に自治体を含む地域振興イベントとしての映画祭が各地に誕生しました。

1985年には日本における初の本格的な国際映画祭である東京国際映画祭が開始されました。東京国際映画祭は、国際科学技術博覧会(つくば万博)の関連企画として東京の渋谷地区で始まりました。当初は隔年開催でしたが、1991年からは毎年開催となりました。

東京国際映画祭は、若手映画人の作品や他の国際映画祭受賞作品の紹介、最新の話題作から日本映画の回顧上映を含む大規模な映画祭であり、当初からカンヌ国際映画祭を意識して企画されました。

2回目の開催から国際コンペティション、第5回からフィルムマーケットを設置しており、国際映画製作者連盟が承認する日本で唯一の長編コンペティション映画祭です。

1980年代後半には日本各地で映画祭が創設されるようになっていきました 。1985年には日本初のアニメーション映画祭で、国際アニメーションフィルム協会が認める日本で唯一の映画祭である広島国際アニメーションフェスティバルが創設され、以後、隔年で開催されています。

また、1987年には個人映画や実験映画をテーマにしたイメージフォーラム・フェスティバルが始まりました。自治体等が主体となって開催する映画祭の例としては、山形国際ドキュメンタリー映画祭があります。この映画祭は、1989年に山形市生誕百周年を記念して開始されました。ドキュメンタリーのための映画祭ではアジア地域で初のもので、湯布院映画祭と同様、村おこしを創設動機としながらも、現在では、アジアを中心に世界中の映画作品や監督が集まるイベントとなっています。

そのほか、バブル経済の影響により、公的資金が地域振興の一環として分配されることで、主催側に自治体を含む地域振興イベントとしての映画祭が各地に誕生しました。

日本の国際映画祭は、すべて1980年代の半ば以降に始まりました。東京国際映画祭を除いて、映画業界が主導権を握って開催するのではなく、地元の自治体等が中心となって文化事業、国際文化交流事業の一環として開催されることが一般的です。

第4期(1990年代)

日本の映画祭は、1980年代から1990年代にかけて多様化し、1990年代以降もその数は増加しています。1989年までは自治体等が関与する例はまだ多くはなく、むしろ、地域の有志によって組成された実行委員会や民間企業が主導する映画祭が一般的でした。

一方、1990年代に始まった映画祭の多くは自治体を主たる財源とするものです。例えば、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭が1990年に開始されたほか、アジアフォーカス・福岡国際映画祭が1991年に誕生しています。また、子供向けの映画祭やフランス映画祭のような各国映画、アジアやヨーロッパ等の地域に限定した見本市的な映画祭、特定のジャンルに特化した映画祭なども生まれています。

第5期(2000年代以降)

2000年以降も多くの映画祭が誕生しています。大規模な映画祭としては、2000年に開始された東京フィルメックスがありますが、地方自治体が主催する小規模な映画イベントも増加しています。

この時期の傾向としては、青年会議所や商工会議所といった地域振興に関わる団体が映画祭を主導するケースが見られることになったことです。これは、全国各地にフィルム・コミッションが設立され、ロケーションの誘致や支援という形で映像コンテンツを活用した地域活性化が注目されたことと関連があると考えられます。

短編映画祭については、1999年に日本で初めての本格的な短編映画祭であるアメリカン・ショートショートフィルムフェスティバルが東京で開催されました。そして、2002年には、よりグローバルな作品を扱うことになったことから、ショートショートフィルムフェスティバルに改称されました 。

インターネットの普及やデジタル技術の進展に伴い、従来とは異なるテーマに焦点を当てた映画祭も生まれました。例えば2004年に始まった埼玉のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭はデジタルシネマに焦点を当てた取り組みをしています。

また、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭など、自治体の下を離れて映画祭実行組織がNPO化する動きも出てくるようになりました。

ただ、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭の場合も山形国際ドキュメンタリー映画祭の場合も、地方自治体が財政上の問題から十分な助成金を工面できず、地方自治体が映画祭の主催から撤退し、映画祭の継続が困難となった事例です。

自治体の撤退にもかかわらず映画祭の開催継続を望むメンバーらがNPOを設立して映画祭を継続させているのが現状です。

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