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小説は身体に記録される

 私は長篇書きなのであるが、最近短い小説を書き上げたことで「劇的」なフィードバックを体験した。それは私がこれまで文章を書いてきたもののうちで、最も強いものとなった。それは瞬発的な刺激ではなく知覚を変質させる。それは元をたどれば私が去年に書き上げた、自伝的な小説がファクターとなっており(私は自分のことを題材にして小説を書くのはそもそも好きではない)、私は陰惨な体験をした町に細かく取材をして、しかしそれを上手くは書き上げることができなかったとする、無残な感触を強く持っていた。私は暗澹として絶望をしていた。そこで手法を変えて、取材から得た具体的な史料なりなんなりを用いるのではなく、取材中に考えていたイデーから着想したものを、軽く書いたところ、「劇的」な変化がどっと訪れたわけである。恐らくはその新しい作によって過去の失敗作を克服したかのごとき点が、そこに寄与していたであろう。
 補足しておけば、これはいつでも同じことだが、推敲の終わりころから変化はかすかに感じられるようになる。それは今回の場合には明るく、快活になっていくという変化であったが、原稿と向き合うことをそろそろ終えられる、ということから来る一過性の安堵の感覚とはもちろん性質を異にしている(むしろ早期に推敲を終えねばならないことをめぐっては、締め切りまでもっと長い時間があったのならばまだ改稿できたはずだ、とする暗鬱とした気分を抱いていた)。そして作品を完成させ、集中状態が解けて数日経過して、作品と完全に切り離された時、クリアになにかが起こっていることに気づく。それはなにかを書き上げたことに対する単純な悦びや、世間的なしがらみを由来とさせた感覚を越えた、大きな変化である。そして、それはゆうに身体の変化といえるなにかである。
 身体が軽くなり、ストレスに対する反応が強固となり、なんだこれは、これは一体なんなのだ、と笑う他なくすような経験というよりは、今後も続いていくなにかが惹起されるのを私は確認した。

 小説を書き上げると私たちはそれまでとは異なるどこかに投げ出される。
 文章を書いた、物語を書いた時、「私」は「それ」を「書いたあとの自分」として生き始める。失敗した物語はこの変化を招来させない場合が多く、少なくとも小説を未完成にさせた場合には、変化は起こらない。
 しかし、この「変化」とは一体なんだったのであろう。小説というどうあれ不確かである他ないもの――実体論としてはせいぜいがインクの染みにしかならないそれが、なぜ、変化をもたらすのか。「異なるどこかに投げ出される」という「文学的」な、ファジーな言い方ではない、なにほどか的確な言い方を求めるのならば、ナラティヴ・セラピーの概念、「上演」をそこに当てはめることができるはずだ。自分の書くものについて可能性を摸索し、そして可能性を託して作品を書く作家たちは「上演」をしているのだ。
 だが「私」は、小説中に書いたコンセプトや主題に、一応の解決や具体的なかたちを与えたことを知り、そこから先どのような展望があるのかについて、漠然とであれ緻密にであれ思い描くことはできようとも、自らの人生というコンテクスト上に書き上げた「物語」がどのように位置づけられるのかを、必ずしも知ってはいない。少なくともそれを正確に知ることは書き上げた直後においては不可能であり、長く時間を隔ててかつて書いた「物語」を、書き手が自分の内省の糧とする事態は、稀である。なによりまた「知覚」にいかなる変化が起こっているのかを、正確になど知ることは許されていない。
 つまりただ「その後」が起こっているのである。物語が自分の身体にどのように影響を与えて働き掛けをするのか、なにが起こっているのかを明確には、知ることはできないが、書き手は書き上げられた「物語」によって「志向性」を与えられる。それが「その後」の生起であり、次になにが書けるのかという可能性を、書き上げた物語は提供する。ここでは「その後」を生きるという、もちろん身体感覚も伴わせた「上演」が行われるわけだが、いっぽうで両義的にしてフラウなかたちで引き起こされたこの「上演」はきわめて自然であり、ゆえに華々しい知覚の変化を時として引き起こす。
 こう言い直した方がいいだろう。「それ」を書いた「私」は「書いたあとの自分」として生きざるを得ないのである。一つのテクストを書くということは一人の人間にとって、可能世界の縮減(このようなことが起こった――書いた――以上このようにしか生きられない)であるはずなのだが、ここでは主観的に可能性の拓けが見出されている(あのようなことを書きえたのだから次はこのようなことを起こしえるかもしれない)。それは再帰的なセラピーと同質の効用をもたらし、大なり小なりの記憶の改編が行われ、脳細胞をはじめとした身体の組成にすみやかに変更をもたらす。「小説を書き得た」ことの成功体験の記憶がただ刻印されるというだけではなく、小説そのものが強く身体に記録される、といった方が近いだろう。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。