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母というひと

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自分は普通だと言い張る母。 家庭内暴力と貧乏に苦しんだ幼少期から、 人生後半の離婚、癌治療…と、 幸せとは言い難いように思える彼女の人生を綴っています。 日記とエッセイの間のよ… もっと読む
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母というひと 番外編

母というひと 番外編

 心が、ちぐはぐになった。
 友人や知人と会うのは楽しい、嬉しい。だけど、帰宅して一人になると激しく落ち込む。
 先週くらいまで不安定な状態が続いていた。理由は母だ。

緊急入院
 9月半ばを過ぎた、深夜0時。母が緊急入院した。精神病院に。

 その日の夜8時くらいのこと。実家近くに住む兄に、父から緊急のSOSが入った。「すぐ来てくれ」と電話口で叫んでいる。飛んでいくと既に数名の警察官が到着してお

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母という人-000

母という人-000

ごあいさつ

本人は普通のつもりで
全然ふつうに生きられなかった母という人のこと

物語にしようと思っていたけど
そのままを描くなら、ノートが一番かなと思ったので
ちょっと、始めてみる。
#母親 #人生 #波乱万丈 #実話 #エッセイに近いかな

母という人-001

母が生まれたのは、昭和14年。
まだ戦争で日本が、世界が苦しんでいた頃。

7ヶ月かそこらの早産だった。
早産の理由は、彼女の父、つまり私の祖父にある。
祖父は腕の良い船大工で、原子力船むつの原型に当たる船を作るとき
九州からただ一人、青写真が焼ける腕を買われて参加したと聞く。
腕が良いということは、羽振りが良いということ。
知人や飲み仲間も多く、人付き合いが派手だったらしい。

ある日。
親しく

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母という人-002

祖母は慌てた。
母の上には2人の男の子と1人の女の子がいて、
これから4人の子供を、夫なしで育てなければいけなくなることに。
羽振りの良い夫が
「家なんざいつでも買える」と豪語して
1円も貯金せず
自宅も買わず
稼いだ金のほとんどを遊興に使い果たしていたことに。

彼が死んだ途端、彼にまとわりついていた太鼓持ち、
宗教者、女郎、そして親戚までもがすっかりいなくなった。
文字通り、家は突然すっからか

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母という人-003

祖母は、まだ幼い娘を手放すことに躊躇はなかったのだろうか?
母は生まれた瞬間に泣き声を上げず
産科医から逆さまにされてお尻を何度も叩かれて
やっと息をしたらしい。

母はその時のことを覚えていると言う。
上の方から見ていたら
自分が逆さまにされて
眼鏡をかけて白い服を着た男の人がお尻をひっぱたいていたと。

祖母に聞くと、担当医は白衣を着て眼鏡をかけていたそうで
母の記憶とは一致すると驚いていた。

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母というひと-004

躊躇があったにせよ、乳飲み子がいては満足に稼げない。
祖母は、娘を里子(養子)に出す手はずを整えた。
少し心に引っかかるのは、
病床にあった祖父が、早産で生まれた娘を視てもらった占い師の言葉。
『この子は金の棒(金運)をくわえてる。手放したらいかん』

とはいえ、死にゆく祖父は一銭も現金を残していない。
祖母には選択の余地などなかった。

昔は今よりも戸籍の管理が甘かったと聞く。
養子に出すときは

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母というひと-005

母というひと-005

ここで少し、母の苗字の話を。

祖父は稼ぎ手としては有能だった。
しかし、夫、そして父親としては最悪だった。
稼いだ金はほとんど一人で飲んで食って
女郎屋に入り浸って
新興宗教に言われるままつぎ込んで
家族の暮らしのために使おうという考えはまるでなかった。

子供がわがままを言えばすぐ買ってやる甘やかしはしても
貯金はしない、家も買わない、妻に余計な金は渡さない。

くわえて酒癖が悪く、酔うと暴れ

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母というひと-006

祖父は倒れてほどなく、事切れた。

そもそも祖父の家は宮崎の延岡城に勤めていた船大工の棟梁一家で
先代が延岡城の家老の一人娘と恋仲になって駆け落ちしたらしい。
駆け落ちとはいえ侍女をつけてきた娘は
自分が産んだ子供たちに対して
「鼻水が汚い、体が臭い」と抱っこも嫌がるので
祖父ら子供たちは全員、侍女に育てられたとか。

それがどう影響したか、兄弟姉妹で互いに助け合おうというような情は皆無だったよう

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母というひと-007

祖母から「遊びに行こうね」と誘われた母は
疑いもなく付いて行く。
矢田家へ着き
遠出で疲れた娘がウトウトと眠ってしまったところで
祖母は黙って去ったらしい。
置き去りだ。

初めて連れて行かれた家で、目が覚めると親がいなくなっている。
その恐怖はどれほどだったろう?

母は大泣きしながら家中を探して回る。
でもどこにも母親はいない。
それどころか、周りは見知らぬ他人ばかり。
もともと赤ちゃんの頃か

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母というひと-008

迎えに来た母親の袖を
母は小さな手で掴んで離さなかったという。
トイレに行くのにも絶対に手を離さない娘の姿は祖母の心を痛めた。
戦争はほどなく終わったが、矢田家の消息を無理に探すこともせず
他の家へ養子に出すこともせず
そのまま、手元で育てることにした。

しかし現代とは世情が違う。
子供を何人も抱えて片親しかいない家庭も珍しくない戦後の混乱期。
児童手当も、生活保護もなく
祖母は一番確実に稼げる

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母というひと-009

祖父の口癖は「宵越しの銭は持たない」だったと聞く。
稼いだ多額の金を自分の遊興費には惜しみなく使い切り
家庭を守るためにはほとんど使わなかった。

そのせいで残された祖母たちは持ち家もなく
祖父が死んで家賃を払えなくなるとすぐに借家を追い出され
長屋の小さな部屋に移り住んだ。
祖母不在の間には
祖母の2人の弟たちが時々は様子を見に来ていたらしい。

昔は優しかったらしいが
戦争へ行き
陸軍の将校へ

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母というひと-010

母というひと-010

一番残酷な暴力とはなんだろう?
殴られ、叩かれ、暴言を吐かれること
直接的な身体の痛みを伴うものはもちろんそうだ。
残酷でない暴力などない。
比較なんてできない。

ただ、一度きりの暴力なら
支えを受け立ち直るきっかけを得られる人もいる。
難しいのは、密室の中で継続的に暴力を受け
心の奥まで打ちひしがれた場合だ。

親が不在の家で毎日のように繰り返される兄達からの暴力は
聞くだに凄まじいものだった

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母というひと-011

母は4人兄弟の末っ子。
長男、長女、次男、そして次女の母の順番で生まれた。
一番上の兄とは10才以上年が離れていたから
力の差は歴然としていた。

次男は小児麻痺を患っていて
小さな頃は、栄養をつけさせるために
祖母が他の兄弟に隠れて一人だけ
毎日卵を1つ、食べさせていたそうだ。
戦後は食べ物がとにかく少なくて
たった1つの卵を毎日手に入れるために
人のツテを頼り
なけなしのお金を支払って大変な思

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母というひと-012

母の認知機能に疑問を持ったのは
小学1年か2年生の時だった。
うっかり忘れていた算数の宿題を、母が代わりにやってくれた時。
慌てて学校に行って授業が始まって
ノートを開いた時にギョッとなった。

全部間違っていたのだ。
ただのひとつも、正解がなかった。

私は慌てて、全てやり直した。
自分が当てられるまでに間に合ったので授業には問題なかったが
母が、こんな子供の自分が分かる計算を
全くできないのだ

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