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母というひと-074話

 母の自殺願望を止められなかった。
 これは自分には大きな後悔となった。

 離婚して自由を手に入れれば母は幸せになるのだろうと信じていたのに、何が叶っても不幸そうな顔をやめない。愚痴をやめない。
 結局はまた死に向かおうとする。

 この人は何がしたいんだろう、とチラリと思った。
 大量に睡眠薬を飲みながら、少ないとは言えない量を床に落とし、コタツの中に入れ込んで隠していたあの様子……。

 狂言自殺

 という言葉が、脳裏を掠めた。
 が、力づくでそれを押し込める。

 狂言だろうと何だろうと、そこに至るには絶望があるわけだから、と考え直して。

 病院で作成してもらったリストを見ながら母の意思を尊重して選んだ新たな心療内科は、バスで20分ほど先の場所にあり、これ以降の母の通院には全て付き添うことにした。趣味でやっていたバンド活動は、確かもうとっくに休んでいたかと思う。いつ止めたのか詳しいことは思い出せない。

 母は自分の行いを反省する言葉を時々呟くようになり、私は以前よりも母に優しく寄り添うことで自殺未遂の一件をどうにか乗り越えようとしていた。

 父には母の様子の報告だけはしていたが、どんな会話をしたのか、これについても記憶がない。父に何かを相談したところで解決にも改善にも向かうはずはないと決めてかかっていたので、大した話はしなかっただろうと思う。

 母は急激に痩せ始め、温泉へ連れて行くと背骨が浮き上がっているのが見えるほどになって行った。
 父への愚痴は止まなかったが、全体の気力が落ちて怨みのエネルギーが減少して行く。視点が合いにくくなり、歩く時には足を引きずり……
 会話は成立するのだが、「正気」の輪郭があやふやになっているような、危うい気配を漂わせるようになった。

 兄にはほとんど会わないし電話で話しをすることもないが、たまさか実家で会ったことがある。
 彼は突然「カーペットに焦げ跡があるやろうが、お前は気付いとるんか」と言い出し、「父さんのことで母さんはおかしくなっとるんぞ」と説教をするような口ぶりで私を責めようとした。

 何も手伝わないあんたに言われたくない、とカッときたが、同時に兄が両親のことをどうやら全部知っているらしきことに驚いた。母は口を酸っぱくして私に口止めをしていたのに、その裏ではとっくに話していたらしい。

 それで怒りと呆れが同時に湧き起こり、兄には「知らんはずないでしょうが。病院には全部私が付き添ってるんだから」と一言強めに返して、その後はもう兄と会話する気になれず、彼が帰るまで母と兄が話しているのを無言で見るだけにした。

 疲れた。
 さすがに疲れを感じ始めた。

 母は食欲が極端に落ちて顔色も悪くなっていたので、歩いて行ける距離の内科クリニックへ連れて行くことにした。
 笑顔が優しげな医師は母より少し若いくらいの年齢で話しやすく、そこでもまた母は愚痴を吐露して慰められ、「この先生は優しいわね、ここがいいわ」と気に入った様子を見せた。

 血液検査をしたが特に問題はないので、食欲減退はストレスのせいと判断され、胃薬を処方してもらってしばらく通院することにした。
 新しい心療内科では事の顛末を私から話し、軽い睡眠導入剤以上のものは処方しないようにお願いしていた。

 私としては軽めの薬の方が安心だったし、プラシーボ効果がもたらされる可能性を考えると、母の体にはそれくらいが良いだろうと考えていた。ゆるゆると軽い薬を飲み続けているうちに、日が薬となっていずれは落ち着いてくれるだろうと。
 幸せにはなれなくても、自分自身を食い尽くすような怨念のエネルギーを薄めるまでは、何年でも私が付き添って行けば良いのだから、と。

 母の食欲はしかし回復しなかった。
 途中から、母と私の好みに合う店を3〜4店に絞り、ぐるぐるとその店をローテーションして食べさせていたのだが、そのうち「出かけるのもしんどい」と言い出した。

 この頃にとてもお世話になったのが、小さなもつ鍋屋だ。
 バンド活動をやめた後も、面白そうなライブには一人でもちょこちょこと顔を出していた。そこで強烈なインパクトを受けたブルースバンドのベーシストがもつ鍋屋を営んでいると言うので行ってみると、味がよくしみて柔らかく炊いたごぼうをカリカリに揚げた一品や、農家から直送されたみずみずしい野菜を使った旬のひと皿など細やかに気が利いていて、何を頼んでも美味しく、連れて行った母も気に入ってくれたので度々顔を出すようになった。

 ある夜、いつものようにその店で食事をし終えて少し離れた駐車場へ向かう時、母がバランスを崩して後ろ向きにこけそうになった。

 とっさに腕を掴んで事なきを得たが、(あれ?)と感じることがあった。
 倒れそうになった瞬間、母が受け身を全く取ろうとしなかったのだ。まるで硬直したように体をそらせ、頭から地面に激突しかけた。

 危険に対して防御の姿勢が反射的に出ない。それは普通ではなく感じられた。
 その反応は、自分が仕事で接している知的障害を持つ人の反応と近いのではないか……。

 その場は「もう、気をつけてよ!」などと笑って安心させ、家へ送り届けたが、こけそうになっても薄ら笑いのままだった母の表情もまた、思い出されると怖くなってきた。
 軽くお酒を飲んでいたにしろ、「あっ」という驚きの声さえ出さないなんて。

 睡眠薬の多量服薬で神経が癒着する可能性がある、という医師の言葉が浮かぶ。

 そもそも、ひどい暴力を受けて育つと脳の成長が阻害されるケースがあると聞く。幼少の頃から際限の無い暴力を兄達から受け続けた母は、それに当てはまると思っていた。
 それでも、瞬時の危険に反応できないようなことは、それまではなかった。
(まさか、睡眠薬の多量摂取が影響してる…?)

 モヤモヤした不安が湧いたが、一瞬の違和感だけで受診するのは憚られるし、仮に多量の睡眠薬が脳に影響を与えたとしても、関連性を証明するのは困難に思えた。

(このまま一人で暮らさせて大丈夫なのか)とも繰り返し悩んだ。けれど、東京から戻って一緒に暮らした際、互いにひどく息苦しくなったのを思い出すと、「一緒に暮らそう」とはなかなか言い出せないでいた。

 食欲がない、食べたくないと言う母を、なんとかなだめて食べさせる日が続いたある日、「胸がつっかえるような気がして食欲が出んのやわ」と言い出した。
 それでまた内科へ行って相談したが、「鬱になるほどストレスを感じると、胸がつっかえるような気がするんですよ」と優しく諭され、母も私もやはりそうかと納得して帰宅した。

 だんだん、外に食事に行くよりは家で座って食べたいと言うようになったので、私は行くたびに両手にいっぱい、母の好物を買って持ち込む事にした。
(この習慣は定着し、再婚後も2ヶ月に一度のペースで親の好物を見繕って送り続けた。なんというか、やめられない儀式のようなものだ)

 食べやすそうな野菜や魚の煮物、好物の甘味、タンパク質を取れるようにローストビーフなど軽めの肉……。三越、岩田屋、大丸と百貨店をめぐり、どこの何が良いかを見繕っては買い試し、母が「これは食べられる」と言ったものをリピートする。
 それでしばらくは凌いでいた。
 内科には毎月一度必ず通い、血液検査をして健康状態を見ながら、胃薬やカルシウムなどをもらって帰った。
「あの先生と話すと気持ちがちょっと落ち着くわ」と母は毎回喜んでいた。

 きっとそのうち落ち着く。落ち着いたら、もう少し食べられるようになるだろう。
 医師も、母も、私も、そう思っていた。

 しかし母が「胸に石が詰まっとるみたいじゃ」と言い出した時、いやこれは普通じゃない、とピンと来た。


普通と自称する母の、普通とは言い難い人生を綴っています。
000047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本編と言える内容です。

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