母というひと-047

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祖母の電話は、父の浮気を霊視したと伝えるものだった。

「今までも浮気しとったのが視えとったんじゃ。でも今回はいつもとは違う。あんまりにひどいけん黙っておられん」と、泣きながら母に父の不実を訴え、「すぐにやめさせんとひどい事になるぞ」と言ったらしい。

母は、私を呼んでその話をし、「あんたどう思う」と聞いて来た。
母の目は三角に吊り上がり、頰は青ざめて額にくっきりと血管が浮いていた。

母は、普段は慈悲深さをたたえた優しげな顔をしているのだが、ひとたび怒ると形相が変わる。
冷静さを完全に失ったその表情が、私も兄も大嫌いだった。
激しいヒステリーの起こし方に、兄が大人になってから「いつかこの人は気が狂うんじゃないかと子供の頃から怖かった」と私に打ち明けたほどだ。
この時の母の顔は、いつにも増してゾッとするような暗さと恐ろしさを感じさせた。

「あんたにも視えるんかね」と重ねて尋ねられる。
その問いからは逃げられなかった。

頭の中の目で祖母の見立てを追う。
私もまた祖母を信じ切っていたからこそ、その言葉への疑いを持てず、また自分でも手応えを感じたために、頷くほかなかった。

父のことは好きだ。正直、母よりも好きだ。
でも、浮気は許せない。
それで、母に「おばあちゃんが正しいと思う」と伝えた。

母は、祖母と私が同じ答えを出したことで強い確信を得た。

母は兄もリビングに呼んで話した。
兄は「お母さんがかわいそうやん」と涙を流した。
「いつもオヤジの言うなりになっとって、それでこれか。あんまりやないか」と。

その姿を見ながら、私は妙に冷めた気持ちを感じていた。
こういう時に泣くのが兄だ。
そして、泣けないのが私だ。
泣く必要すら感じないのが、私の冷たさだ。

これが「本当の優しさ」の違いだよ、と、心の奥で声がした気がした。

母は父に電話した。
そして、浮気を強く責めた。
すぐに口論になったが、しかし急激にトーンが落ちて行く。
電話を切った母が私を振り向いた。

「父さんは浮気なんかしてないって言いよるんやけど、あんた本当に"視えた"んかえ」と。

え。

それしか言葉が出なかった。

え?

(おばあちゃんと私をあれだけ今まで信じて来たのに、父さんの一度の否定で、今度はおばあちゃんと私を疑うの?)

母は「ばあちゃんにも電話する」と言い、すぐに掛けて「うちの人は浮気なんかしとらんと言っちょるんやが。ばあちゃん本当に視えたんかね」と、いきなり責め始めた。

父は結局、事が落ち着くまで頑として認めなかった。
私を電話口に呼ぶと、冷たい声でこう言った。
「お前がばあちゃんと同じ力を持ってるなんて初めて聞いたが、なんだそれは。
 お前は父さんが信じられないんだな?残念だよ。非常に残念だ」

昔の記憶が蘇った。
兄が引越し先の家で突然吐いて洗面所を詰まらせた時のこと。
母が「神さんがこの子に助けてくれって頼んだんじゃね」と言うと、父は「そんな考えは好かん。二度と言うな」と言ったのだ。

父は、私の成績が良いところが好きだった。
成績が下がってからはあまり可愛がられた記憶がない。
ただでさえ父の評価が最低ラインに落ちていたのに、このことで、何かが終わる音がした。

父との関係が切れた。

そう思った。

テコでも認めない父と自分の見立てとの間に挟まってしまった私は、どちらも信じることができなくなって宙ぶらりんになった。
祖母はそんな私をこう慰めた。
「転ばぬ先の杖という言葉があってな。今度のことはそれじゃわえ。
 わしが何も言わんかったら、この先ひどい事が起こったじゃろうが、こういう話をした事で、お父さんは踏みとどまってくれるはずじゃ」と。

それもまた話が違うじゃないか、と思った。
おばあちゃんは現在の話をしてた。
私もまた同じように感じ取った。
悪い未来を避けるための "先読み" ではなかったはずだ。

私は、頭の中の目を閉じた。
自分が間違っていると思い込むしかなかったから。
でも、それはこれまでの自分を全て否定するということでもある。

だから、すぐに苦しくなった。

言ってしまった言葉は消せない。
消えた信頼も戻らない。
自分が積み上げて来たものも、一瞬で崩れてもう元には戻せない。

母は、「今度のことはばあちゃんの間違いじゃ」と言い始めた。
でも私のことは責めなかった。
責めなかったが、母と私の間に隙間ができた。

母との関係もまた終わったのだと、私は思った。

この家にはいられない。
そんな気持ちが出てくるのに時間はかからなかった。
両親を裏切ったような気持ちになると同時に、頭の中の目を閉じたことで、私は私をも裏切ってしまった。
それまで信じていた神という存在さえも。

自分が、いかに自分をないがしろにして生きて来たのか、少し気づいたのかもしれない。

親の信頼や愛情と、祖母に教えられた神の存在、正しい教え。正しい生き方。それらを差し引いてみると、自分の中には、自ずから生じたと自信を持てる核のようなものが何も残っていなかったのだから。

(今までの自分は、教えられたことを鵜呑みにしただけの人形みたいなものだったのか)

それで、家を出た。
家を出て東京へ行き、二度と帰らないつもりで一人暮らしを始めた。
20才の誕生日を迎えて、少し経った頃の出来事だ。

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