母というひと-070話
母の、父の相手への電話はしばらく続いた。
一度かけると何時間でもキイキイと怒鳴り続けるらしく、父から再び「やめさせてくれ」と頼まれた。
(私にそんな力があるもんか)と思いつつも、だんだん狂気じみて行く母の目つきに、このままではいけないという気持ちも湧く。
今の母に「冷静になれ」と言うのは火に油を注ぐばかりで、私とてやりたくはない。それでも言わなければならない。
それで、どんなに相手が悪くても、こちらがやり過ぎて相手が被害届を警察に出すようなことになれば、今度はこちらがお金を払わないとならなくなる、と少し丁寧に説明してみる事にした。
お金を取られる、という部分が少し効いたのか、「そんな事になるんかね。それじゃこっちが損をするんじゃね」と、ちょっとばかりしおらしさを見せる。
「電話するたびに何かスッキリする?」と尋ねると、首を横に振った。
「余計イライラするんじゃわ。あの女が、あんまりにあつかましい態度を取るもんじゃけん」などと言い、怒りが満ちると、また瞳がギラギラと見開かれる。
人は怒ると、なぜ目を見開くのだろう。
なぜあんなにも、黒目が開いてしまうのだろう。ギラギラと輝きながら。
その目が見ているのは、私でもない、まわりの風景でもない。
憎い相手だけ。
直接会った事もない相手の面影を、母はそうやって想像しては凝視し、社員名簿で見た顔を脳内でトレースし、まるで今なら本当に呪い殺せるんじゃないかと思うような強烈な恨みを全身に溢れさせていた。
「今やっとることは、母さんのためになっとらんよ。分かる?」
私は何日かかけて説得を試みた。
「それをして余計イライラするんなら、それはせん方が良いことなんよ。
逆に、それをするせいで母さんがどんどん不安定になりようと。そうやろ?」
あくまでこちらの言葉は平坦に。でも心配しているよと表情で伝えながら話し続ける。
こんなやり方を幾度も繰り返し、気を紛らわせるためにスーパー銭湯だ公園だ植物園だと連れ出して外の空気を吸わせ、食事をさせ、一緒にいる間は父に対する悪口雑言をひたすら耐えて聞き続けた。
母の怒りはヒートアップすればヒステリーとなって噴出する。そうなるとどうしても父や相手の女性に電話をして、何時間でも怒鳴り続けるのを止められないでいた。
かと思えばひどく落ち込み、死にたい死にたいと繰り返す。
「なんで私は北海道で死ねんじゃったんじゃ。
あの時死んじょったら、こんなことは知らんで済んだんに」
正座をし、身を二つに折って、床に伏して絞り出すように泣く。
ヒイ〜、ヒイ〜、と声を上げて母は何度も何度も、泣いた。
昔、漫画で強烈に辛い目を見た女性が泣き声を上げるコマに「ヒイ〜」と書かれてあったことをふと思い出す。
わざとらしい演出だとその時は思ったが……母の泣き方は、その絵そのものだった。
髪を振り乱し、衣服にも気を使わず、まわりの目も気にしなくなり、焦点が合うのは父と相手の女性を呪う時だけ。
それ以外では少しずつ、表情がぼんやりとし始めて行く。
母はだんだん生気を無くし、亡霊じみた薄い存在感を漂わせ始めた。
ある日は、「うちにあるあんヤツの写真を全部破って、家のドアに掛けて来ちゃった(来てやった)」と言う。
見ると、古い古いアルバムまでも引っ張り出して、父の顔のところを指でちぎって抜いていた。刻んだその写真は、袋に詰めてわざわざ新幹線に乗理、父の家のドアノブに掛けて無言で帰ってきたのだと言う。
またある日は、
「近くの美容外科に行ってな、おっぱい大きくしてもらうわ」と言い出す。
相手の女性が普通より大きめサイズの豊満なタイプだったせいで、母の女としてのコンプレックスが酷く傷付けられているのは分かっていた。
それで本人の気持ちが落ち着くならと軽く受け流したら、繰り返し通って3カップ以上のシリコンを入れてしまった。
また違う日は、私が家に着くなり「これ見てくれんね」と紙袋を出してくる。
ずっしりと重い袋に嫌な予感がしながら覗くと、無造作に詰められた刃物の山が。
出刃包丁、刺身包丁、小魚包丁、ノコギリ、裁ちばさみ……うちにこんなにたくさんの刃物があったのかと驚かされる量だった。
「これでな、あんヤツと女と刺しちゃったら(刺してやったら)どうかと思ぅてな。そしたら少しは反省するんじゃないんかねえ」
本気なのか分からないような表情の薄れた顔で淡々と言われ、さすがにその時はゾッとした。
少しばかり強い口調で「母さん、これはいかん」と言うと「いけんかね、そうかねえ」と言いながら、思ったよりアッサリと他の部屋へ持って行った。
冷や汗が背中を流れる。
殺生なんかできるタイプではないのだ。
昔から、動物が狩りをする映像すら怖がるような臆病者だ。人なんか刺せるわけはないとは思うが、今の精神状態では断言できる自信もなかった。
「母さん、父さんのことは少し忘れようよ」と、私も全く配慮のない言葉を、励ましのつもりで掛けたりしてしまう。
「そりゃ忘れたいわね!けどな、忘れられんのじゃわ。どうしても頭にあの二人がちちくりあっとるところが浮かんでな、もうおかしゅうなりそうでたまらん」
そう言って泣く。
少しずつ痩せて行く体も心配だったので、私は母を内科に連れて行くと同時に、家の近くのメンタルクリニックのドアを叩くことにした。
案の定、初診で鬱病の診断が下された。
その頃には、母のエネルギーは全て、父とその愛人を恨むことに注がれていた。
食べる気力も、歩く気力も薄れ始め、髪もボサボサ、服を着れば斜めになったりボタンを掛け違えたり。
今でも覚えているが、小さな子供を連れた高齢の女性が、すれ違いざまにギョッとした顔で母を振り向いた事があった。その表情に驚いて母を見ると、そこにはまさしく狂気の人が佇んでいた。
頭の重みで軽く後ろへ傾いた顔、半開きのままの口、虚ろな目、両手はだらりと力なく下がり、足を引きずるように歩いている……。
軽く羽織ったカーディガンの肩は、片方、何度戻してもずり落ちてしまい、母の体が左右のバランスを取ろうとさえしていない事にも気付いた。
私はそれで、臨界点が近いのだと悟った。
(このままでは、きっと歩けなくなるか心が壊れて一人で生きて行けなくなる)
はっきりとした危機感を抱き、すぐに運転免許と訪問介護員の資格を取得した。
母が正気を失ったら、二人で暮らすつもりで。
そして介護の技術を身に着けるために、介護職へ転職した。
一回30分〜2時間ほどと決まっている訪問介護の仕事なら、一日中オフィスにいるよりも時間の融通が効くだろうとも思ったので、施設ではなくホームヘルパーの仕事を選び、その分、母と一緒に過ごす時間も増やした。
そんな時に、同居人から「話がある」と電話がかかった。
「あの話の返事をしようと思って」と。
母と一緒の時だったので、母を待たせ、少し離れて会話を続けた。
待ちかねていた別れの言葉を待って。しかし。
「おふくろに話した」
「は?」
なんで30過ぎた男が、別れ話をわざわざ母親に相談するのかと奇妙に思った。もしかしてこの人、マザコンだったの?と疑問が湧く。
「結婚したい相手ができたっておふくろに話した。
今度おふくろが連れて来いって言いよるけん、そのつもりでおってくれ」
「はあ?!」
頭を殴られたようなショック、とはこの事だ。
母が(なんかあったんね)と、声を出さずに聞いてくる。
咄嗟に、母に心配をさせちゃいけない、と思い、笑顔を作って「ああ、うん」と言ってしまった。
相手はそれを承諾だと理解した。
私は、頭の中では(別れたい、別れたい)と思っていたのに、その後もおかしな事に言葉は真逆の返事をしていた。
今でも不思議に思う。
なぜあの時、本心とは逆の返事をしてしまったのか。
(ていうか、真っ先にそれを言うなら私でしょう?なんで母親に言うのよ)と、マザコン疑惑は浮かんだまま消えず、一度相手を信じさせてしまったために、今さら「あなたとは結婚したくない」とは言えなくなった。
母には何も言わなかった。
私が結婚するとなると、おそらく遠慮して「もう来んでいい」などと言い出しそうだからだ。
同居人は、帰宅した私に、これまで一円も払わずに私の家に暮らしていたことを詫び、「これからは月に2万円は入れるから」と堂々と宣言してくれた。
2万円。
1ヶ月の光熱費にギリギリ足りるか、足りないかの額だった。
普通と自称する母の、普通とは言い難い人生を綴っています。
000〜047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本編と言える内容です。
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