母というひと-073話
あれは深夜2時か3時。枕元に置いていた携帯が鳴って目が覚めた。
どうせまたいつもの母のヒステリーだろうと思ったのに、通知は意外にも父からのものだった。
(何かあったんだ)
「もしもし」気持ちを落ち着けながら通話ボタンを押すと、父の声が久しぶりに聞こえてきた。
「こんな時間にすまん。起こしたか?」
「うんまあ。でも母さんからこれくらいの時間に時々電話が掛かってくるから…」
「そうか。すまんがな、すぐに母さんの所に行ってくれんか」
「どうしたの」
父の声は冷静だが、焦りが隠せずいつもより少し早口になっていた。
「母さんが死ぬと言い出してな、それから全く電話が繋がらんのだ。
何か変なことでもしてるといかんから、悪いがお前さん行ってみてくれ」
(ああ、やっぱりか)
私はガバッと跳ね起きながら、予測できた事態を防げなかった事を激しく後悔した。
急いで服を着替えながらも、少し前、母の家で見つけたパンパンに膨らんだ処方薬の袋を思い出していた。中身は全て睡眠薬だ。
母が不眠を訴えているとはいえ、尋常ではない量だった。
それで直接クリニックに電話を掛けて、医師に話がしたいと申し出た。
当然受け入れられると思っていたその申し出は、窓口で電話に出た事務員か看護師か分からない年配の女性に即座に断られた。
「先生は患者さんご本人としかお話しされません」と、木で鼻をくくったような言い方で。
「それはおかしいでしょう?心療内科ならば家族の話も聞く必要があるんじゃないですか?」とすがるような気持ちで訴えてみたが、「では先生に尋ねてみます」と一旦電話を保留にし、すぐに解除して「やはり患者さん以外とは話せないそうです」ときっぱりと拒否されてしまった。
私は嫌な予感が膨らんでいたので、せめて伝言をと半ば強引にメモを取らせた。
母は服薬自殺を試みた事がある。睡眠薬の処方には慎重になって欲しい、と。
「伝えます」と電話口の女性は言ったが本当に伝わったのか、伝わっても家族の懸念など診療には邪魔だとでも思われたのか、それ以降も処方内容に変更は見られなかった。
母にそれとなく病院を変えるよう進言してみたが、こちらも断固拒否されてしまった。付き添いもいらないと言い張って。
だからすぐに、もし母が死のうとするなら、あの薬を飲んでいるはずだと思ったのだ。
同居人が目を覚ましたので簡単に事情を伝えると、「俺も後から行こう」と言ってくれた。
何が起こっているか分からないからには、1人よりは2人の方が助かることもあると思い、頼んで先に家を出る。
タクシーを呼んで待つ時間さえもどかしい。車の免許を取っておいて本当に良かったと思った。
深夜のスカスカの道を飛ばして実家へ向かい、階段を駆け上がってノブを回す。
鍵はなぜか開いていた。
「母さん!」
叫びながら中へ入ると、母はテーブルタイプのコタツに座り、ゆっくりと笑いながら私を振り向いた。
「ああ、あんた、来てくれたんやねぇ」
言葉が間延びしていておかしい。
駆け寄って手元を見ると、やかんに水を汲み、それを茶碗になみなみとよそっては次々と薬を開けて飲んでいる。
「やめて!何しようと!」
叫びながら手から薬を取り上げるが、母はにへにへと笑いながら薬の袋から次のシートを出して薬を飲もうとし続ける。たまに、誰へ向けたものか分からないがニヤニヤした笑顔のままで「ごめんねえ」とか「わるいねえ」とボソボソと呟いていた。
座っている足元を見ると、たくさんの錠剤が散らばっている。それをかき集めて母の手が届かないところへ移し、ゴミ箱に捨てられたりその辺に放られている空になった薬のシートも集めて、最初何錠あったのかをざっと把握する。
200錠分か、それ以上かあったようだがその大部分がなくなっていた。
(いや、足元にまだ落ちてるかも)と、もう暖かいのに片付けていないコタツ布団をめくると、結構奥の方へも錠剤が見えた。
急いでかき集めて、それも数えた。その分を引いても、半分近くは飲んでいる勘定だ。
少し、奇妙な感じを得た。
(どうしてこんなに錠剤が床に落ちているんだろう?)
こういう時、本気で何かをしでかそうと思うなら、一粒残らず全部飲もうとするんじゃないんだろうか。
すぐに119番へ電話をし、「母が睡眠薬を大量に飲んだようです」と伝えた。
電話の向こうで、私を落ち着かせる声掛けがまずあり、「どれくらい飲んだか分かりますか」と問われた。
「だいぶ下に落ちていて、それでも多分6〜70錠かそれ以上は……」と伝えながら母を振り向くと、その瞬間母が、シートから押し出した錠剤を足元に落として、サッサっとコタツの中へ入れ込んだのが見えた。
(は⁈)と声を上げそうになる。が、グッと飲み込んで救急隊員とのやり取りに集中した。
ほどなく同居人が到着し、深夜のため、周辺への影響を考慮してサイレンを鳴らせない救急車を、道の角まで迎えに出て家まで誘導してくれた。
この時は心から彼の存在に感謝した。
そしてまた介護の仕事で様々な人と会い、様々な状況を学び、いくばくかは経験を積んでおいた事で、ほんのわずかでも冷静に対応できた事にも感謝した。
救急隊員が到着しても、母は口が回らず緩慢になった喋り方で、「すみませんねえ、なにか、まちがったみたいで、ごめいわくおかけしますねえ」などと、へらへら顔のままゆっくり、ゆっくりと、誰にともなく呟き続けていた。
もう立てなくなっていたが階段の幅が狭いので、大きな布のようなものに座らされ、2名の救急隊員に前後から抱えてもらって、ぶらぶらと揺れながら降ろされて行く。
その間もずっと「すみませんねえ」「わるいですねえ」などとブツブツ小声で言い続けていた。「こんなにしてもろうて」。
この時は、母がいつものように体裁を繕って笑っているのだとしか考えなかったが、今思えば、筋肉が弛緩して笑っているように見えていただけだったのかもしれないとも思う。
その表情はまるで浮世の辛さから解放されて、幸せすら感じているようにも見える、やわらかな笑みだった。
垂れた目尻、緩んだ口元。すっかり消えた眉根の深い皺。
頰がうっすらと上気し、むしろいつもより健康そうにすら見えた。その強烈なギャップが、今も脳裏に焼き付いている。
同居人に施錠を頼み、私は自分の車で救急車の後を追った。
幸いにも家から10分先の病院が受け入れてくれたので、すぐに処置が行われたのが幸いだった。
その病院では家族が泊まれる設備がないので一旦帰るようにと言われ、仕方なく朝9時に出直したのを覚えている。
はて。私は職場に何と言い訳をして休みを取ったんだろうか。まるっきり記憶が抜け落ちている。
翌朝、点滴だの尿導カテーテルだの酸素チューブだのをつけられて管だらけになり、昨夜の妙なハイ状態から醒めたらしき母は私の顔を見るなり開口一番、「尿を取るチューブを外してもらって」と頼んできた。
性的な話を汚らしいと忌み嫌い続けたためか、治療のための措置であれ、デリケートな部分を触られることは耐え難い屈辱のようだった。
「それはお医者さんが判断する事やけん」と言っても聞かない。
自分のせいでしょうと言いたかったが、この状態でそれをぶつけるのも酷なので、最後は嘘も方便で「分かった。伝えておくから」と答えておいた。
医師の手が空いたところで母の状態を聞きに行く。
医師は「大変でしたね」と私の目を見て声をかけ、答えにくいかもしれませんがと前置きをして「こういう事をしたのは初めてですか?」と尋ねて来た。
「2回目です。最初は市販の睡眠薬を飲んだようで」と答えると、ああ、市販のものは効果が弱いので、そこまで心配はないんですと教えてくれた。
北海道から帰ってきた母が、それまでと何ら変わらなかったことを思い出す。そういう事なのか。あれくらいのものひと瓶飲んでも、死ねるわけじゃないのだとここで知る。
「ただ今回のものは処方薬で少々強いので、後遺症が残らないとも限りません。できれば2、3日入院して様子を見た方が良いのですが、良いですか?」と。
入院はむしろ有り難かった。すぐに連れ帰っても、私は24時間付き添うことができないし、入院していれば少なくとも変な行動はしないだろうから。
「後遺症として考えられるのは、脳がダメージを受ける可能性です。もしくは、神経が癒着して手足の機能に影響が残るような場合もあります」
「神経が癒着?睡眠薬でそんなことになるんですか?」
驚いて尋ねると、医師は自分の指を二本くっつけて私の前に差し出した。
「そうです。こんな風に神経同士が癒着してしまうことがあるんです。そうすると、その先の機能に影響が出てしまいます。例えば指の神経が癒着すれば、指がうまく動かせなくなるというようなですね」
くっついた二本の指を見ながら、私の頭は色々な考えがぐるぐると巡り始めた。
元から思考力が高くはない母の身体機能が低下したら、一体どうなるのだろうかと。
いや、それは見越した上で介護の資格を取ったんじゃないか、と反論が浮かぶが、自然に衰えるのと薬の副作用で衰えるのではニュアンスがやはり違って感じられる。
無言になった私を医師は少し待ってくれて、それから次の質問をした。
「退院した後はどうされます?また同じクリニックに通いますか?」
それは私の否定を待つ問いかけだった。医師の立場上、クリニックを変えた方が良いとは安易に言えないのだろう。
「違うところへ通わせたいです」
医師は頷き、「では退院までに、他のクリニックを私の方でも探しておきますね」と言ってくれた。
眠る母の元へ戻ると、一気に力が抜けて床に座り込んでしまった。
病室の入り口を通りかかった医師が、チラとこちらを見たような気がしたので、頑張って立ち上がる。
さすがにこの時ばかりは、こたえた。
母の弱さが恨めしかった。父の無責任さが腹立たしかった。
父には電話で報告した。けれど父は確か、この時は来なかった。私も呼ばなかった。
仮に来たとして、それで母がどんな反応をするのか父にも私にも予想ができなかったのだ。
心底疲れ果てて、私もこれ以上余計な気を遣いたくなかった。
幸いにも母に目立った後遺症は見られなかった。3日目には退院することになり、医師が作っておいてくれたメンタルクリニックのリストを受け取って、お礼を行って病院を後にした。
医師は短い言葉で励ましてくれた。それがとても嬉しかった。
病院の入り口でタクシーを探していると、病院かかりつけの歯科クリニックが車で偶然通りかかり、私たちの様子に気付いて「家まで送りましょう」と申し出てくれる。
医師の、静かながら思いやりを感じられる心配り、そしてたまたま通りかかっただけなのに、母の足元を心配して車に乗せてくれた歯科医師の優しさが、この時どれだけ沁みたことか。
母にも「有り難いね」と何度も話しかけ、「そうやねえ、本当にねえ。ありがたいわねえ」と、久しぶりに他人と関わった母が感謝の気持ちをあらわしてくれると、なぜか私の心がそれで慰められるような気がした。
母は、身体中をチューブに繋がれた不快感が消えないうちは「もうあんな事はせん。あんたにも悪かったね」と言い続けた。
そして自殺未遂は確かに、これが最後となった。
母に大量の睡眠薬を処方し、家族の懸念を拒否して話もしなかった心療内科は、今も変わらず実家のそばにある。
直後に事の顛末を手紙に書いてポストへ投函したが、うんともすんとも反応は来なかった。
他人の話なら「訴えれば良いのに」と言いたくなるような出来事だが、当事者にしてみれば、そんな時間や気持ちの余裕は全く持てない。
世の中には、こんな風に、事が起きているのにどうにも動けず、時間とともに忘れ去られるアクシデントがたくさんあるんだろう……。
目に見えている事件なんてごく、ごく一部の、そのまた一部だ。
この医師を許す気には今でもなれない。
その後改めて調べたが、家族の協力を拒む心療内科など他ではむしろ見付けられなかった。
なぜならメンタルの不調は、孤独の中では改善しづらく、また薬を飲めばそれで治るものではないからだ。身近な家族や友人の協力が、治癒にはとても大切な要素だとまでかかれている。
それを拒否するような医師ならば、ヤブだと断定してもいいとさえ思う。
少なくとも、もし今通っている医師が家族や友人との関係を無視して薬だけ処方するようなタイプなら、今すぐ他の医師を探した方が良いと強く提案したい。
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000〜047話は、母の人生の前提部。
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