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20190121 6年越しのお礼(まゆ)

昨日はなんだかぽっかり時間が空いてしまって、それをどう使えばいいかわからずちょっと鬱っぽかった。
こういうことってたまにあって、そんな時SNSとかyoutubeとかブログとか、今の自分に必要がないとわかっているのになんとなくダラダラ見てしまう。
録りためている映画とかお笑いとかもたくさんあるし、読みたい本もたくさんあるし、布団入って目をつぶったり、自力整体したり、パンパンになった頭をほぐす方法はいくらでもあるのに、なぜかそういうのを選ばない。選べないのか。
とにかくなんだかよくわからない罪悪感とか焦りとかも上がってきたりして、不毛な時間を何時間も過ごしてしまう。その後は自分でも手に負えないくらい何かに消耗してしまう。

少し時間をおいて、退屈しているのだと思った。自分にも、今の暮らしにも、状況にも環境にも。
もう、そうなんだと思う。
そして、私の中で退屈は絶望ともとても近い感じがする。

今楽しみなこともいろいろあるし、求めることや希望もあるのだが、時に私のある精神性がそれを純粋に志向することを許さない。

それで、昨日夜勤中の正敏とメールでやりとりしていて、「普通だけど身体を動かすのはめっちゃいいよ!」と言われ。
早速2人で時間を合わせてなんとなく浮かんだ伏見稲荷に行ってきた。

前回行ったのは6年前。
正敏がいよいよ「安定した」仕事をやめることを決めた時だった。尋常じゃなく不安だったけど、もうそうするしかなかったのだ。
山の上から京都の街並みを見下ろし、夕日を浴びながら「2人でいれば大丈夫だよね」と話し、神社で手を合わせた。

それから6年、まさに茨の道だった。それでも、今日までなんとか2人でやってこれたことのお礼をしたかった。

6年前はとても静かな山道だったが、今日は午前の早い時間にもかかわらず、外国からの観光客でごった返していた。
運動不足で身体が完全になまっている。
息をきらせながら山頂まで登った。

京都には高い建物がないから、京都の街を見渡せるのはだいたい山の上から。
登りきった爽快感と、すばらしい景色でもうすっかり気持ちは晴れていた。

6年前と同じ景色を見ているが、もう見え方はずいぶん違っている。

なんか今とても大事なところにいると思うから、なるべく日々のことを残していきたいなと思う。見てもらうことを意識すると、ついかっこつけてしまって、結局悩んで書けないことが多い。これはただの記録なんだと思ったら、意外とすんなり書けた。
日記ってまともに書いたことないけど、その人が生きていたというリアルな記録に一番近いからめちゃくちゃ尊い。

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