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今こそ!ベイ・シティ・ローラーズ

2006年に「さるさる日記」で連載していたエッセイです。
まだ道半ば、というところで多忙となり、書き上げていません。
とりあえず資料として、ここに上げておきます。

2020年9月に逝去したイアン・ミッチェル、2021年4月に逝去したレスリー・マッキューン(マッコーエン)に哀悼の意を捧げます。


■2006/07/16 (日)今こそ!ベイ・シティ・ローラーズ

Bay City Rollers。BCR。
今の若い人は「サタデー・ナイト」を聴いたことあるぐらい?


ちょっと前までは、演奏力のない作られたアイドル、イエスタディズ・ヒーロー、などと揶揄され、聴くのも恥ずかしかったバンド。
なぜか今になって、ものすごく惹かれているのです。

そもそも僕が中1だった1977年。初めての洋楽との出会いがこのBCRでした。
正確にいえば、BCRを電撃脱退したパット・マッグリンのソロデビュー曲 「あの娘はアイドル」にシビレてしまったのです。


その後当然のようにBCRワールドにのめりこんでいきました。
当時はほんと凄い人気だったんですぜ~!
女の子だけでなく、今までテレビアニメに夢中だったオトコの子の気持ちをシフトさせた 独特の高揚感、それはまさに僕らにとっての「ロック」だったのです!
「ロックン・ロール・ラヴ・レター」はホントかっこよかった!


そうそ。ちょうど来日で実家福島まで来たことがあったんだけど、当時は教育委員会のお達しで「BCRコンサート観覧禁止」のビラが渡った時代でした。
その後、KISSとの出会いで演奏することを覚え、さらにQUEENとの出会いが 今の仕事につながるきっかけとなるのですが、わずか2年足らずでBCR熱は醒め、ずっと聴くこともなくなっていました。
その原因は、やはり、ボーカリストのレスリーがBCRを脱退したのが決定打だったように思います。
それほど彼の声は特別だった。いい声だったのです。

その後、BCRはThe Rollersと名を変え、新しいヴォーカリストを入れて 再出発したことは知りつつ、レコードを買う興味がなくなってしまいました。
僕のBCR熱は、そこで止まってしまったのです。
あれから29年・・・。
偶然「レスリーとパットが麻薬売買で逮捕」

というニュースを耳にし、ショックを受けました。
その時に、彼らについて実は何も知らなかったことに気付き、無性に知りたくなったのです。
ここ最近、ヤフオクで夢中でいろんな資料を集めましたよ!
それでいろんな興味深い事実が少しずつわかってきました。
これは何回かに分けて書くこととしましょう (^^)


■2006/07/17 (月)今こそ!BCR 2:Tam Paton

彼らの演奏力が明らかにヘタクソなのは残念ながら一聴瞭然です。
ヘビメタ~プログレにはまった20代の耳ではやはり再評価に至らなかったでしょう。
しかし今あらためて彼らの音を聴くと、BCRにしかできない若さ故の味があるんですね~。
デレクのソリッドなドラム。エリックのビブラートなしでのばすフレーズ。 そしてやはり、レスリーの軽く甘い声こそがBCRマジックなのは異論ないところでしょう。
このレスリー、92年に日本のテレビ番組に奥さんと息子と共に出演し、往年の名曲をメドレーで披露したことがあるんですが、当時と変わらぬ素晴らしい歌声でした。


さて、そんな彼らがいかにしてブレイクを果たしたのか? そこに意外な物語があったことはあまり知られていません。
彼らは作られたアイドルではなく「自ら長い下積みの中作り上げた」アイドルバンドだったのです!
そして彼らの誕生の謎を解く鍵は、タム・ペイトンという男との出会いにあります。

時は1962年頃。ビートルズがもう少しでブレイクするかという時代に遡ります。
イギリスはエジンバラの田舎町で、若者向けに音楽を聴かせるクラブがあり、そこの箱バン、いわゆるビッグバンドのリーダーだったのがタム・ペイトン。
その店に足繁く足を運んでいたのが、農家のボンボン兄弟の兄、当時14歳のアラン・ロングミュアーでした。
アランは弟のデレクと学生バンドを結成し、自分ちの牛小屋でリハーサルにいそしんでいたのです。
そのバンドこそが、ベイ・シティ・ローラーズ。
弟デレクがアメリカの地図に鉛筆を投げ、当たった場所がBay cityだったことからつけられた名前だったのは有名な話です。
当時はビートルズの登場でバンド・ブームが起こり始め、エジンバラのクラブも ビッグバンドから若いバンドへと転身を図ろうとしていました。
つまりタムは、仕事が減っていたのです。
そんなときに、クラブの常連だったアランは自然にタムと仲良くなり、自分のバンドをどうにかしたいという相談をしてきたのです。
タムは彼の家で初めて少年達の演奏を聴き、オレならいろんなアドバイスが できるかもしれないと思います。
そんな親分風と、自分の転身も含めた新しいビジネスのワクワク感から、彼らのマネージャーとなる決心をするのです。
まだBCRに、エリックもレスリーも参加していない時代。
BCR下積み生活の始まりでした。


■2006/07/18 (火)今こそ!BCR 3:1967

久々にBCRに深く接しているうち、僕自身の中学時代の記憶も少しずつ蘇ってきました (^^;;
鉛筆投げで名前を決めたエピソードを真似して、僕らもバンド名を地図帳から 探そうてことになったんだっけ。で、偶然指さした名前が「ミケーネ」!
うちの中学校始まって以来のバンド演奏を文化祭でやり、校長先生が一番前で見てる中 「僕のシェイラ」なんかを爆音でやったのです。
次の年は「電気楽器の演奏禁止」になってしまいましたっけ。
すごい時代でした。

アラン達が最初のバンド「アンバサダーズ」を始めたのが62年。
当時の僕と同じ14歳でした。
このときタム・ペイトンも23歳の若さというのがびっくり、そしてなるほどです。
彼らは学生仲間でメンバーチェンジをくり返しながら、名を「サクソンズ」、そしてベイ・シティ・ローラーズに変える頃には腕を上げ、5年の月日が流れました。
タムが彼らを本気でマネージメントし始めるのが、1967年。
それは学生運動が盛んになる年。
ピンク・フロイドがデビューする年。
そしてビートルズ「サージェント・ペッパー」の年!
旧態依然の音楽業界のシステムが少しずつ変わっていく年でした。
しかし28歳のタムには、おそらくその潮流は見えていなかった。
彼はずっと13~16歳ぐらいの子供を相手に仕事をし、しかも彼の好みはいわゆるスタンダード・ナンバー。そして彼はほとんど作曲をしないのです。また彼の業界のコネクションが、まさに旧態依然の体質を持つベル・レコードでした。これらの方向が、BCRの音楽性をひもとく鍵なのです。

さらに、タムがBCRを売り出すためにやっていたことは、メディアまわりではなくいわゆる地方巡業。
楽器一式を乗せたトラック一台でスコットランド中を回ったのです。
演奏先は、エジンバラの中なら中高生が集まるダンスホールのようなところがありましたが 地方まわりだと労働者が集うパブやバーが大半を占め、まだ高卒or中退ボーイたちの演奏がすこぶる評判が悪いのは当然でした。
そんなガキ共を、ひと月も家に帰れないような過酷なロードワークで連れ回すのですから、ギャラも当然芳しくなく非効率なことこの上なし。
このジリ貧状態が、71年「朝まで踊ろう」というヒットを出した後さらに3年も続いていたのですから驚きです。
今考えると、メディア戦略を全く知らなかった素人マネージメントの失敗だったことは明らかでしょう。


■2006/07/19 (水)今こそ!BCR 4:Nobby Clark

さて、タムがマネージしはじめた当時のBCRのシンガーは、アランの学友ノビー・クラーク。
彼はレスリーと違って、シャウト系のワイルドな声の持ち主。
そして当時のファンの大方がノビーのファンでした。
当時のBCR演奏曲目はというと、大半が初期ビートルズやチャート曲のカヴァー。
そう、彼らはセミプロのダンスホール・バンドにすぎなかったのです。
唯一作曲ができたのがノビーで、曲目に少しずつノビーの曲が増えていきました。
音楽性は、ちょっとハードロック寄りだったようです。
ノビーは当然のように、オリジナルで自己表現できるバンドとして、BCRのフロントマンを楽しんでいました。
それに待ったをかけたのが、タム。彼の理屈は実に、日本的でした。
曰く、「まずは売れてから。それまではもっとわかりやすく親しみやすいものをやろう。」
まだ同じ夢を共有するノビーは、しぶしぶ同意します。

遠出のドサ回りはほとんど成果にならないものの、タムのブッキングのおかげで 地元エジンバラで定期的に行われるイケメングループの人気は、70年になる頃には絶大なものになっていました。
ビートルズ以来、10代に標準を合わせたバンドは出現していなかったのです。
しかも片田舎で起こったこのブームは、はるかロンドンへはまだ届いていませんでした。

そんな折、タムのコネだったベルレコードの社長が、たまたまスコットランドの音楽視察に訪れ、BCRを目撃します。
ホールを満杯にした女の子達の割れんばかりの金切り声に驚いた社長は、即時にBCRメジャーデビューを約束したのでした。
最初の音楽プロデューサーは、伝説のプログレバンド、ジェネシスを手がけたジョナサン・キング。
ノビーは、期待に胸あふれたことでしょう。
しかし、現実はきびしかった。
ベル・レコードにとって彼らはただの若いアイドルバンドであって ノビーの音楽性は全く無視されたのです。
それどころかレコーディングの現場に行くと、既にスタジオミュージシャンによってカラオケが全て用意されており、ノビーが歌うだけの状態でした。
タムはノビーをなだめすかせ、なんとか完成したシングルが、「朝まで踊ろう (Keep On Dancing)」。
65年全米4位だった曲のカヴァーでした。

写真右の赤スーツがノビー。そう、当時のBCRは6人でした!

■2006/07/20 (木)今こそ!BCR 5:KIP

「朝まで踊ろう」は71年6月発売。10月になってやっと全英9位のヒットになりました。
最近この音源が再発CDのボーナストラックとしてCD化されています。

(試聴可!)

ちなみに当時のチャートには、ジョン・レノン「イマジン」、ロッド・スチュワート「マギー・メイ」の名が。
普通ならこれで一気にスターダムへ!ですが、その後チャートは一気に急降下。
なぜなら売れた理由は、老舗レーベルのブランド力と、10年前のヒット曲の懐かしさ感だからで、BCRというバンドの魅力ではなかったからです。
はっきりいいましょう。ノビーの声に魅力がないのです。
その後2枚のシングルをリリースするも、国内では全くヒットせず。
3枚目「いとしのマナナ」という曲はなぜか単発で、イスラエルで1位になったのですが・・・

それでもBCRのメンバーはタムを信じ、彼のいわれたとおりもくもくと巡業を続けていたのです。
冬は氷点下10度以下に冷え込むスコットランドの夜を、何日もバンの中で毛布にくるまり 安いクラブ巡りを続ける過酷な生活。
何人かのメンバーはそれに耐えられず、離れていきました。
逆に残ったメンバー同士、そしてタムとの絆は固くなっていきます。

さて、BCRの単発ヒットによって、タムには思いがけない財産ができました。
エジンバラ内では若者の頂点に立ったBCRに少しでも近づきたいという10代のバンドブームが起こり、BCRのマネージャー・タムなら僕らを何とかしてくれるかもしれない、という 多くのバンド・キッズ達が、タムにこぞって連絡を取り始めたのです。
それは、タムにBCR次世代候補の選択肢が広がったことを意味していました。

彼らの中に、キップという若く魅力あるバンドがあり、そこには仲のよい、 エリックとウッディという2人がいました。
タムはそこから、ギターのエリック・フォークナーをBCRに抜擢します。
ちなみにその後釜としてキップに加入するのが、パット・マッグリンです。

こうして少しずつ、ブレイク期のメンバーが揃っていきます。
それはとりも直さず、BCRがアランのものからタムのものへと変わっていく歴史でした。
エリックは、憧れのBCRに加入した嬉しさと粘り強い性格から、過酷なツアー生活にいち早く慣れ、タム信者の一人となります。
この彼の一途さが、後に新加入のイアン、パットとの確執を生むのです。


■2006/07/21 (金)今こそ!BCR 6:Martin/Coulter

作曲ができるエリックとノビーはすぐに意気投合。
早速オリジナル曲作りに精を出します。
ビートルズ登場以来、バンド=アーティスト=オリジナル、という確かな流れができていました。
タムもオリジナル曲の重要性はわかっていました。
ただし独自性や自己表現というより、印税のためなのですが。
ところがベルレコードは相変わらず、おかかえのプロデューサーに楽曲を用意させ、演奏まで任せてしまう社風でした。

73年 (QUEEN、KISSデビューの年!)。
ベルの社長が今度こそBCRを何とかしようと白羽の矢を立てたのが、フィル・コウルターとビル・マーティンのユニット。
彼らはいわゆるシンガーソングライターで、当時は新進気鋭の一押しヒットメーカーでした。
当時英米の音楽業界では、レノン/マッカートニーのように2人の名前で創作することに憧れを抱く傾向があったのです。
当然ノビーも、クラーク/フォークナー、というのが念頭にあったのでしょう。
その淡い期待が、マーティン/コウルターによってまたもや叩きのめされることになります。
タムを通じて出された、せめてB面にオリジナルを、という要請すら成績不振を理由に却下され、コウルターがミュージシャンを雇い録音した楽曲を指示どおり歌うようノビーに強要されます。
そうして作られた4枚目のシングルが、あの名曲「サタデー・ナイト」だったのです!

この「ノビー版」サタデーナイトは、後に録音し直されBCRの看板曲にまでなった「レスリー版」と印象が全く違っていました。
録音のたびにエジンバラからバンでやってきては、車に泊まりながら歌入れしていたノビーが、今回もタムに説得され、イヤイヤながら歌っているのがバレバレで、歌い方が重苦しくコワイのです。
当然これも、全くヒットに至りませんでした。

そして遂に、この次にヒットしなければ手を切る、というベルレコードからの最後通告を受けます。
タムは、長いつきあいのノビーをまだクビにする気はありませんでしたが、 ノビーのフラストレーションはピークに達そうとしていました。
そして、この状況を一変させる出来事がタムに訪れたのです。
それこそ、若さ・美貌・天性の歌声を兼ね備えたシンガー、レスリーとの出会いでした!
Leslie McKeown。
「マッコーエン」という表記が日本で定着してしまいましたが、発音は「マッキューン」。
ここでは敢えて、レスリー・マッキューンと表記してみます。


■2006/07/22 (土)今こそ!BCR 7:Remember

当時17歳のレスリー少年は、不良仲間とバンドを作っていましたが、友人から教えてもらったタムの電話番号に自ら連絡し、営業をかけたそうです。
面接で一発で衝撃を受けたタムは、ノビーに気を遣いつつも、レスリーをBCRに入れるタイミングを見計らっていたのです。
そしてその時が遂にやってきます

ベルレコードが「最後のチャンス」に用意した楽曲はやはり、マーティン/コウルターのものでした。
ノビーはなんとか録音を終えますが、コウルターの独善的なディレクションにぶちキれ、口喧嘩を始めてしまいます。
ノビーはこの時、BCRは自分の求めるものではないことを悟り、脱退を決意します。
ここでタムはノビーを引き留めるどころか、彼の前にレスリーを引き合わせるのです。
ノビーは2度ショックだったことでしょう。
せめてコンサートのリハ中はレスリーを見てやってくれ、というタムの願いに一度はOKしながら、ふらりと出ていったまま、その約束を果たしませんでした。
こうして、劇的なヴォーカル交代劇が速やかに行われ、そのタイミングで、ノビー最後のヴォーカル作品「想い出に口づけ (Remember)」が発売されました。
74年3月、この曲が、奇跡のチャートインを果たします!
思うにこれは明らかに、楽曲の勝利でした。
「シャララ~」と口ずさめる印象的なサビ。コウルター執念の快挙です!

この時すでに、ツアーは若きレスリーがフロントマンを務めていました。
最初はノビーファンの猛烈な拒否に合うも、彼の魅力は誰もが否定できなかったのです。
そしてもうひとつ、速やかなメンバーチェンジ劇が。
ノビーの脱退でやる気をなくしていたギタリスト、ジョン・デヴァインが去り、かつてエリックとベストパートナーだった、キップのウッディ=スチュワート・ウッドが加入。
同じタイミングで、コスチュームにタータン・チェックをあしらったいわゆる「ローラー・ギア」のアイディアを、エリックが考案。
こうして、我々が一番目に耳にする最強の新生BCRの5人が遂に顔を合わせたのです! BCRがプロになってからなんと、早8年が経っていました。


■2006/07/23 (日)今こそ!BCR 8:Rollin'

それからの5人はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで人気は急上昇。
イギリスの有名な音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演するや、 イギリス中にいわゆる「ローラー・ハリケーン」が渦巻いたのです。
「ベイ・シティ・ローラーズのテーマ (Shang-A-Lang)」、「太陽の中の恋 (Summerlove Sensation)」、「明日に恋しよう (All Of Me Loves All Of You)」と、立て続けに出した マーティン/コウルター作、レスリーが歌う3枚が軒並みチャートをにぎわせます。


作曲陣にはキップ組のエリックとウッディ。
またウッディとアランはマルチミュージシャンで、どちらもベース、ギター、キーボードができました。
アランとデレク兄弟のリズムセクションはタイトでピッタリ。
それに唯一無二、レスリーの声が絡むのですから、これ以上強力なラインナップはないでしょう。
こうなれば次の課題は、レコードに自分たちの演奏と、オリジナル曲を入れることでした。
そう。レコードにはまだ1曲も、自分たちの演奏が録音されていなかったのです。

そうして遂に、ファーストアルバム制作の機会がやってきます。
プロデューサーのマーティン/コウルターは当然、アルバム全曲を自分たちの曲で埋めたかったでしょう。
事実、既発のシングル5枚で、既に10曲分のマテリアルがあったわけですから。
しかしそれには、さすがのタムもだまっていませんでした。
タムは交渉の末、アルバムに彼らのオリジナル曲を4曲入れられるようにします。
その代わりに課せられた条件は、オリジナルにかけられるレコーディングが4日!(1日1曲ということでしょうか?)というタイトなものでした。

しかし波に乗る彼らは、おそるべき集中力でそれをやり遂げたのです!
おそらく、キップ時代に作った曲などを大急ぎで改良したのでしょう。
後日エリックは臆することなくこの不満をプレスに語っています。
また当然のようにこの時、「サタデー・ナイト」「想い出に口づけ」の歌はレスリーに差し替えられました。
こうして完成したファーストアルバムが『エジンバラの騎士 (Rollin')』です。


■2006/07/24 (月)今こそ!BCR 9:Once Upon A Star

今でも最初のアルバムは全てメンバーは演奏していないという噂が行き渡っていますが、僕はこれを否定します!
明らかにFaulkner/Wood名義の楽曲は全て彼らの演奏です。
3曲目「エンジェル・エンジェル」のドラムパターンは6曲目「想い出に口づけ」とほぼ同じですが、スネアの音が全く違います。
この音は名曲「ロックン・ロール・ラブレター」のイントロと同じ音質ですね!

いかにもコールター風に作ったという感じが微笑ましいです。

オリジナル4曲のMIX具合は殆ど同じで、他曲と比べバランスも荒く、明らかにこもっていて、いかにもやっつけな感じ。
曲のクオリティもまだまだ素人クラスです。
これがまさに4曲一緒に同じ部屋で大急ぎ制作・録音されたことの証明です。(2曲のカヴァー曲は、おそらくコールター制作でしょう。)
8年もプロでやってきているバンドが、できるのに演奏を他人に任せるわけがない。今だから、彼らの名誉のためここははっきりさせておきたいところです!

しかしよくもまあ、コールター(マーチン氏は制作には関わらずビジネスパートナーだったようです)氏は似たような曲をこれだけ連発したものです。
2匹目のドジョウは似せて作るのが定石ですが、シングル続けて4曲が同じ曲調、テンポ、アレンジ!
よっぽど好きでないとすぐにタイトルと曲が一致しないのでは?
実際、出す度にマンネリになってきている楽曲のことをタムも同じように感じていて、次回のアルバムから、彼らを使わない決心をしたのです。
そのために当時の専属契約上、多額の解約金を払わなければならなかったようです。
アルバム『エジンバラの騎士』(いい邦題ですよね!)が売れに売れまくったので ゴーに踏み切ったのでしょう。
これは本当に、素晴らしい決断でした。

そして次のプロデューサーが、また素晴らしい仕事をしてくれたのです。
当時同じように人気を博していたバンド、Sweetのプロデューサーでもあった、フィル・ウエインマンです。
彼の元、メンバーは初めて作る楽しみ、喜びを味わいながら、今度は時間をじっくり使って 75年発売のセカンドアルバム『噂のベイ・シティ・ローラーズ (Once Upon A Star)』が作られたのです!


■2006/07/25 (火)今こそ!BCR 10:Once Upon A Star 2

セカンドアルバム制作に当たり、タムの自宅で2000枚のオールディーズコレクションから見つけ、全員一致でカヴァーを決めた曲が、フォーシーズンスの名曲「バイ・バイ・ベイビー」。

この曲が彼らにとって初のチャート1位曲となります。
タムが「シングルカットは売れそうなカヴァーを、アルバムにはオリジナルを入れ確実に印税を」というビジネス的観点を持ち続けたことが、BCRに多数のカヴァーをさせた理由なのです。
言い換えれば、タム自身はエリックの作曲能力を、実はあまり評価していなかったということです。

エリックは持ち前の負けん気気質で、なんとかヒット曲を出してやろうと意気込みます。
アーティストでもあったプロデューサーのフィルはそれに答えるかのように、様々なアイディアやスタジオ録音のテクニックを彼らに伝授しました。
そしてそれが現実に花開くのが、3枚目の名作アルバム『青春のアイドル』なのです!
が、とりあえずは2枚目の楽曲を見ていきましょう。
1枚目の「不思議な気持ち」という曲で聴かれたマンドリンとヴァイオリンは 実はエリックの演奏だということが、「いとしのジュネ」という曲でわかります。
ロンドンのテレビ番組でエリックはこの曲のマンドリン演奏を披露しています(当てぶりですが)


また先の2つの映像から、アランが左利きで、しかもレフティでなく右用のベースを器用に弾いているのがわかります。
そしてアランが実はかなりのハイトーンボイスの持ち主で、コーラスの高いパートは 彼の功績だとわかるのが、彼がリードヴォーカルを取った「ロックン・ロール・ハネムーン」という曲。

木管をフィーチュアしたクイーン風の「想い出のスター」は、後の「イエスタディズ・ヒーロー」と歌詞の内容がだぶりますが、僕にはこの歌は、グループを去ったノビーへのはなむけの曲に聞こえます。


それから「ひとりぼっちの十代」はエリックの、コールター風の快作で、 1枚目の「エンジェル・エンジェル」と比べると楽曲の質が格段の進歩を遂げており、僕はあのマンネリの「明日に恋しよう」に明らかに勝っていると思います。


そして彼らが総仕上げに取り上げたのは、第一期BCRのデビュー曲「朝まで踊ろう」のリメイクでした。
ここで初めて彼らは自身で演奏し、自らの歴史のオマージュとしたのです。



■2006/07/26 (水)今こそ!BCR 11:Success

2枚のアルバムの大成功のおかげで、彼らの生活は激変しました。
突然富と名声を手に入れたメンバー(とタム)は、まず大きな車を買い、事務所を構え、エジンバラに各々の豪邸を買い、アランは夢だった農場や馬を手に入れました。
メンバーの作る楽曲を管理する会社「ベイ・シティ・ミュージック」を立ち上げ、これが彼らの収入源となりました。
タムの読み通り、エリックとウッディ(時々レスリー)名義の曲がお金を生んだのです。
女性ファンに気を遣い、ガールフレンドはいないことがことさら強調され、 どこへ行ってもヒステリックなファンに囲まれ、私生活の自由が奪われました。
こうして、レコーディング、ツアー、テレビ収録に明け暮れる数年の間に、様々な利害に向き合うことになるのです。

アルバムの人気が全欧に飛び火し、初めて行ったアイルランド公演の前座は 地元のBCRコピーバンド、ヤング・シティ・スターズ。
そしてそのリーダーは無垢な美貌を持つ、若きイアン・ミッチェルでした。
タムは一目で彼の魅力に取り憑かれます。
「彼をBCRに入れたい!」 これが、BCRのネジを狂わせていくひとつのきっかけでした。
その矛先が、最年長のアランに向けられたのです。

全英ツアーがひととおり終わった75年5月、突然アランの脱退声明が出されます。
当時のプレスでは、アランが脱退したがっている理由は「普通の生活に戻りたい」というものでしたが、やっとつかんだ栄光を手にし、今一番脂がのっている時期にそんなことをいうのは明らかにおかしい
BCRは、アランが始めたバンドだったのですから!

しかしこのショッキングな声明に、8万通にも及ぶファンの撤回願いが寄せられました。
タムは予想外の反発に、このメンバーチェンジ計画をひとまず棚上げにします。
間もなく今度は、レスリーがトラブルを起こします。
車でおばあさんを跳ね、殺してしまったのです。
これは高額な和解金で何とか解決したようですが、この事件でレスリーはタムに頭が上がらなくなってしまったと想像できます。
エリックは、自分の作品がBCRを支えていることに、プライドを持ち始めます。
このとき実質のリーダーが、アランからエリックへと変わったのです。
アランがプレイヤーとしてBCRらしさを作ることに貢献していたことは、3枚目のアルバムで明らかです。
しかし作曲をしたくてもエリックはそれを拒否。
あくまでFaulkner/Wood名義にこだわったのです。


■2006/07/27 (木)今こそ!BCR 12:Wouldn't You Like It?

こうして再び前作と同じプロデューサー、フィルを迎えて作り上げた3枚目のアルバムが傑作『青春のアイドル(Wouldn't You Like It?)』でした。


エリックはここで作曲能力を開花させ、遂に殆どの楽曲がFaulkner/Wood名義となります。
前作制作時に作られていたフィル作曲のシングル曲「恋をちょっぴり(二人の純愛)」がチャート入りし、リミックスして収録されることになったため、残念ながらオリジナル全曲制覇とはなりませんでした。

このアルバムにはBCRの魅力である「身近さ、親しみやすさ」「カッコよさ」「青春の切なさ」「楽曲のよさ」の全てがハイクオリティで詰まっています。
捨て曲が全くないのです!
「ダンスはゴキゲン」「若さでロックンロール」「二人でいつまでも」のカッコよさは、コールターには書けなかった、ローティーンのオトコの子をも虜にする魅力がありました。


今でも僕と同世代の熱狂的な男性ファンをネットで見つけることができます。
「レッツ・ゴー・ミュージック(Don't Stop The Music)」のなんちゃってラテンも新鮮。

しかし何より、ファンタジック・フォークとでも形容できそうな不思議な名曲「イーグルス・フライ」こそ このアルバムの真骨頂です!
僕もこの曲に大きな思い入れがあります。

そして最後に、余裕というかシャレというか、あまり前に出なかったデレクのドラムソロ(?)とナレーションだけという「愛のメッセージ」で幕を閉じる、コンセプチュアルな構成です。

ニッポン放送で当時毎週欠かさず聴いていた「輝け!BCR」という番組の挿入歌だったせいか この曲を聴くと、中学生だった頃の実家の部屋を思い出します(^^;;
75年11月にこのアルバムが発売された時にはすでに、ローラーハリケーンは アメリカ、オーストラリア、そして日本へと飛び火していました。
アメリカでこの時、レスリー版「サタデー・ナイト」が初めて紹介され、シングルカット。
これがまたたく間に1位に輝きます。

そのおかげで発売直前にこの曲も追加され、『青春のアイドル』はまさに無敵のラインナップを揃えたのでした。


■2006/08/07 (月)今こそ!BCR 13:Singles

アルバム『青春のアイドル』制作時にノリにのっていた黄金期BCRは、この時期にアルバム収録曲以外にも沢山の録音をしています。
1年後に4枚目のアルバムが出るまでの間に、この時期に作られた数多くのアルバム未収録曲がシングルカットされ、ビッグヒットを飛ばしています。
アルバム指向のアーティストではあり得ない現象です。
もちろん演奏はアランがベースの、メンバー全員による演奏です。

75年11月、アルバムと同時期にリリースされた常識破りのアルバム未収録曲、「マネー・ハニー/愛しのマリアンヌ」。
エリック&ウッディの代表作ですね。全英3位の快挙!

しかしこの後プロデューサー、フィル・ウェインマンとエリックが対立。
フィルは仕事を降りることになります。
そして76年、あの名曲「ロックン・ロール・ラヴ・レター/恋のシャンハイ」がアメリカ先行発売!全米28位に輝きます。

76年以降BCRの原盤権が英ベルより米アリスタに移り、それに伴って日本の発売元は、CBSソニー(当時)から東芝EMIに変更になりました。
さらに76年8月には、エリック&ウッディ作のまたまたコールター風の佳作、「ラヴ・ミー・ライク・アイ・ラヴ・ユー/ロックン・ロール・ママ・リー」が発売、全英4位をマーク。実はB面曲こそが、BCRらしさ全開のカッコイイ隠れた名曲なのです!(本当の発音はママ・ライ。)

時間はちょっと遡りますが、アルバム発売前にシングルカットされ全英1位を記録した「恋をちょっぴり」のB面「彼女を泣かせないで」も名曲です!

日本では『ニューベスト』という名前でこれらの曲を、他のヒット曲と一緒に アルバムにし発売。日本のファンのほとんどが購入したのではないでしょうか? (実は僕もこのベストアルバムが、初めて買った洋楽アルバムです!)

また、ノビー時代の貴重な音源を2枚組のアルバムにした『青春の記念碑』は 日本だけで発売され、世界のローラーマニアのレアアイテムとなっています。

これらの曲のほとんどは幸運にも、CD化の時にボーナストラックとして収録され、現在も聴くことができます。


■2006/08/08 (火)今こそ!BCR 14:Ian Mitchell

「jewel in the crown(王冠の宝石)」とまでタムが褒めちぎった逸材、イアン。
一度はあきらめた彼のBCR参加を、再び決断する日がやってきます。
近年のタムのインタビューによれば、3枚目のアルバム録音中、アランは手に入れたばかりの農場の手続きで、ロンドンとスコットランドを行ったり来たりしていたようで それがエリックを苛立たせたようです。
しかしタムはそれ以上に、BCRは若さ・青春・イケメンのイメージで売れていることを知っており、全米に進出する一番波に乗っているこの時期に、新しいアイドルを入れることで人気に拍車をかけたかったのでしょう。
アランはBCRの生みの親とはいえ、長い下積み生活のうちに最年長になってしまったのです。
かつてレスリーの抜擢でBCRを生まれ変わらせたタムの自信と感性が、アラン脱退を決意させたことは間違いないでしょう。
確かに、タムには美少年に対する鋭い嗅覚がありました。

今まで敢えて書きませんでしたが、彼はゲイであることを後に告白しています! そう、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタイン(そして日本のジャニーズ!)とこんなところでリンクしてくるのです。
こうなると、今までのBCRの歩みを別な目から見れてしまいます。
ただタムは、BCRのメンバーには決して手を出していない、と強調していますが・・・ このことに対する僕の見解は後で述べることにして、イアンの話に戻しましょう。

タムはアランに、ソロ活動のバックアップを約束、BCRの音楽管理会社の役員に推薦、などを条件にBCR脱退を説得します。
こうして76年4月1日、エイプリルフールをわざと選び、アランとイアンのメンバーチェンジ記者会見を開いたのです。

写真はおそらくこの時撮られた、珍しいアランとイアンのツーショットです。
こうして若干18歳、イアン・ミッチェルの衝撃的なデビューが決定したのでした。
イアンにしてみれば、ずっとコピーし、憧れの存在だったBCRの本家になれるなんて夢のようだったでしょう!
そしてこのメンバーチェンジの読みはまたもや当たり、アメリカ、そして日本で 爆発的な人気に火をつけることになるのです。


■2006/08/09 (水)今こそ!BCR 15:Big Change

イアンの参加はビジネス的には大成功でしたが、バンドとしてのBCRには大きな危機でした。
BCRをバンドとして見た場合、ベーシスト・アランの存在感は大きかった。
ポール・マッカートニーに影響を受けたメロディックなベースラインと、ハイトーンのコーラスは BCRの音作りに貢献していたことが『青春のアイドル』の楽曲群によくあらわれています。
そのアランがいなくなったことで、ウッディがベーシストに転向しなければならなくなったのです。
ウッディはクラシックの素養もあるマルチミュージシャンで、アラン在籍時も 時々ベースを弾いたりしていました。
しかし、ベーシストならわかると思いますが、ライブの大半ベースを弾くには、まめを作って指をベース向きに相当鍛える必要があるのです。
しかもバンドとしての個性を出すためにはベーシストとしてのサムシングが必要で、そんなに簡単にその境地までなれるはずはありませんでした。
(しかし彼は持ち前の感性でみごとそれを克服し、1年後に立派なベーシストとなるのです!)

さらに、問題なのがイアンのギタリストとしての演奏能力でした。
コピーバンドを以前していたといっても所詮は素人。
プロとして経験を積んできた他のメンバー、特に同じギタリストのエリックは、彼をバンドに加えるのにかなりの調整を必要としたでしょう。
この「音楽家的切り口」でBCRを語る資料が皆無なので、これはぜひいっておきたいポイントです。

アランが去った後、実質的バンドリーダーとなったエリックは、「アイドル」としてのBCRと、自分が支える「バンド」としてのBCRのギャップを責任感とプライドを持って何とか乗り越えようとしていたに違いありません。
(実際エリックは不眠症になり、睡眠薬の飲み過ぎで入院する騒ぎをこのとき起こしています。)
まさにこれが、半年後に起こるイアン突然の脱退劇の大きな理由のような気がします。

新体制BCRの初仕事は76年4月、米ミシガン州ベイ・シティでの表彰式授与から始まります。
わずかなリハーサルを経て5月はヨーロッパ中をツアー。
そして6月から3ヶ月間カナダに滞在し、4枚目のアルバム制作に入るのです。
前2作の素晴らしい仕事をしたフィルは今回使われませんでした。
全米制覇を見据え、米アリスタ社長、そしてタムの希望で、GFR、スリー・ドッグ・ナイトの名作を作った名プロデューサー、ジミー・イエナーを指名したのです。


■2006/08/10 (木)今こそ!BCR 16:Dedication(訂正・加筆しました)

ジミー・イエナーは、エリック・カルメン率いるラズベリーズのプロデューサーでもあります。
ジミーがしたのはまず、イアン加入後のヨーロッパツアー視察。
このとき彼はメンバーの実力と人気を見極め、アルバム制作を快諾します。
そして前作のプロデューサー、フィル・ウエインマンの後を引き継ぎ、再び彼ら自身の演奏で録音することをメンバーに確認しました。
しかし楽曲はマネージャー・タムの意向を受け入れ、オリジナルとカヴァーが半々となりました。

ジミーは、ヒットしそうなカヴァー曲を片っ端から探し、知人のヒットメイカーに書き下ろし曲を依頼します。
録音はジミーのノウハウを取り入れ、曲毎にドラムキットを変えるなどの工夫がされ、ドラマーのデレクを驚かせます。
実際聴いてみると、ドラムの音が確かに曲毎に違っているのがわかります。
こうして約1ヶ月で制作されたのが、BCRの頂点期の傑作とされる4枚目のアルバム 『青春に捧げるメロディー(Dedication)』です。

裏ジャケットには堂々とジミーのサイン入り一言コメントまで入っています。
そして実際楽曲の質は素晴らしいもので、このアルバムにBCRの代表曲がちりばめられています。
なんといっても、ダスティ・スプリングフィールドの名曲をカヴァーした「二人だけのデート」!

「僕らは昨日のヒーローになりたくない」という歌詞を確信犯的に入れた「イエスタディズ・ヒーロー」。

ラズベリーズの73年のヒット「レッツ・プリテンド」も素晴らしい!

イアンの声が聴けるアルバム同名曲もいい曲です。

「カッコー鳥」の作者は、後にあのレインボーの「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」を書いたラス・バラードです。

その中で、エリック作の「すてきな君」「ロックン・ローラー」も名曲といえる健闘ぶりです。


■2006/08/11 (金)今こそ!BCR 17:Dedication 2(訂正・加筆しました)

エリックのギターはFender Stratocasterをカスタマイズしたもので、 フロントにPAF、センターにFender製のハムバッカーを付け、スライドSWが2つある変わったモデルです。

ストラトにしては妙に厚い彼独特のトーンは、一聴してすぐわかります。
彼らの憧れ、ビーチボーイズの名作「ドント・ウォリー・ベイビー」のカヴァーは、原曲のキーを尊重し、レスリーはファルセット(裏声)で歌っています。

ちなみに英国盤は、楽曲の配列が米国版と違っており、「二人だけのデート」「カッコー鳥」が「ロックン・ロール・ラヴ・レター」「マネー・ハニー」に差し替えられています。

レコーディングが終了して休む間もなく、9月から半年に及ぶ カナダ、アメリカ、イギリス、そして日本を回る世界ツアーを開始します。
突然ビッグスターの仲間入りをした10代のイアンには、大変過酷な現実でした。
イギリスツアーまで終わった10月、イアンは喉の使いすぎで緊急入院。
手術を余儀なくされます。(ウッディもこの時、鼻の手術をしています。)
しかし退院後すぐに家に帰ることは叶わず、TV収録の仕事をこなさなければなりませんでした。
必死で仕事を終え、約1年ぶりに故郷のアイルランドに帰ったイアンは、そのままBCR脱退を決断します。
アイリッシュであるイアンが、スコティッシュである他のメンバーとそりが合わなかったことも容易に想像できます。
これから日本上陸というときにイアンを失ったタムは、思い当たるもう一人の美少年を急遽、BCRのメンバーに抜擢しました。
それが元キップの、パット・マッグリンです。


■2006/08/12 (土)今こそ!BCR 18:Pat McGlynn

イアンと同い年の当時18歳、パットは、かつてエリックが作ったバンド・キップの、エリックの後釜として、しばらくウッディと共に活動していました。
しかしウッディもBCRに参加することになり、キップは自然消滅することに。
その後パットは、実兄ダンのバンド、ワッツ・アップに加入。
地元ではポストBCRとの呼び声も高く、英デッカ・レコードが彼らに目をつけ、まさにデビュー直前のタイミングで、タムはパットに声をかけたのです。
パットにとってもBCR加入は夢でしたので、迷うことなくOKします。
が、様々な話を考慮すると、タムとメンバーはパットのことをこの時点では正式メンバーではなく、イアンの二の舞を踏まぬようツアーの様子を見て判断する研修期間と見なしていたようです。

わずか2週間でメンバーチェンジは速やかに行われ、パットはニュージーランド、オーストラリアツアーを無事こなし、76年12月11日、BCRは遂に日本の土を踏むのです。
空港には1000人を越すファンが溢れ、彼らの来日は社会現象にまでなりました。(その前年クイーンの初来日で、空港側はアーティストの対応マニュアルができ、トラブルは起きませんでしたが。)

BCRでの日本の人気はアメリカと並行して起こり、決め手は「サタデー・ナイト」のヒットでした。
イアン脱退は日本のファンにもショックを与えましたが、それにもまして、少女漫画から飛び出したような愛くるしいパットの登場は衝撃的でした。
何より、彼はイアンと比べて、歌もギターもうまかったのです!
さらにパットは、キップやワッツ・アップで育んだ作曲・アレンジの才能がありました。
タムはかなり前からパットを知っていて、エリックが精神疲労でBCRを続けられなくなった時、パットにメンバーチェンジをしようとしていたようです。(エリックにはショックな話です!)

ではなぜアランの後釜はパットでなくイアンだったのか?
僕は間違いなくその大きな理由は、パットのきついエジンバラ訛りだと思うのです。
他のメンバーもかなり訛ってはいますが、パットのはかなりひどい!
インタビューを聞いてもさっぱり聞き取れません。
実際メンバーにも、あんまりしゃべるな!とクギをさされていたようです。 が、日本だったのでそこはみごとにごまかされ、一躍パットはレスリーと人気を二分する人気者になったのです。


■2006/08/13 (日)今こそ!BCR 19:It's A Game(訂正・加筆しました)

10日間に渡る日本滞在を楽しんだメンバーは、各々のクリスマスを故郷で祝い、怒濤の76年は幕を閉じました。
ちなみにこの年、Rabbittというグループがデビューします。
メンバーには後にYESのメンバーとして活躍するトレヴァー・ラヴィン、そしてレスリーなき後のBCRにヴォーカルとして抜擢される、ダンカン・フォールがいました。

そしてさらに波乱の77年が訪れます。
年明け1月に全米ツアーとTV収録を終えると5人はエジンバラに戻り、5枚目のアルバムのデモ作りに着手。
翌2月から2ヶ月をかけ、スウェーデンでレコーディングに打ち込みます。
今回のプロデューサーは、ジミーでもフィルでもなく、エリックが敬愛する デヴィッド・ボウイを手がけた、ハリー・マズリン。
独立してできなくなったジミーからの紹介でした。

このアルバムが発売される直前の5月、世界のファン達を再びショックに陥れる事件が起こります。
それが、加入して半年のパットの、電撃「解雇」のニュースでした。
エリックが直接パットの自宅に電話をしてその件を伝えたようで、パットは茫然自失。
しかもその真相は語られず、「パットの父が高額のギャラをタムに請求した」「パットがメンバーとそりが合わなかった」などいろんな憶測が飛び交いました。
そして今後、メンバーは残った4名のままでやっていく、という声明も出されたのです。

後にバンドの暴露本 "Bay City Babylon" が出版され(2015年現在、日本語未翻訳)、そこにはショッキングな事実が綴られていました。

パットによれば、その5月、テレビ出演のためにアメリカはマイアミに行った時のこと。
マネージャーのタムはパットをコカインで眠らせ、襲おうとしていて、パットはそれに気づき、枕の下にバターナイフを仕込んでおき、彼が迫ってきた時に背中に刺したそうです。
それが脱退、というか解雇の真相だったようです。
それまでにパットへは、ギャラは一銭も払われていませんでした。
こうした渦中にリリースされた5枚目の「問題作」アルバムが、『恋のゲーム(It's A Game)』です。

ジャケットにもクレジットにもパットの存在が消されていた以上に驚いたのは、 彼らの音楽の大胆な変化でした。
かつての青春のニオイを残したティーンエイジ・ポップの面影はなく、そこにあったのは ファンキーでセクシーで憂鬱なソウルの雰囲気だったのです。

オリジナルの楽曲は5曲。
エリックによれば、このアルバムにタムは一切口出しせず、初めて自分たちがイニシアチブを取って作ったものでした。
このアルバムの特異性について今回、僕は大胆な考察をしてみました。
実はこのアルバムに大きな貢献をしているのは、意外にもパットなのではないか?というものです。


■2006/08/14 (月)今こそ!BCR 20:It's A Game 2

パットはインタビューで、曲のクレジットがBay City Rollersとなっている 「スイート・バージニア」は自分の作曲であったことを明かしています。

確かにこの曲は、かつてのBCRにはなかった「リフレイン」で作られています。
パットがこのリフのアイディアを出し、ジャムセッションで形にしていったものでしょう。
歌詞は他の曲同様、エリックがつけたものと思われます。
イントロのリフの軽快なトーンは、エリックの音でないのは確かです。
これはパットが日本公演で弾いていた、Gibson Les Paul Deluxeの音でしょう。
この曲の他にも、エリックの音でないカッティングがかなりの割合で『恋のゲーム』に入っています。

「ダンス・ダンス・ダンス」の汚いリフの音こそエリックのトーンです。
この曲もパットの影響下で作られたと考えるのが自然です。
なぜなら、後にパットが発表したアルバムを聴いていくと、『恋のゲーム』のエッセンスである ファンキーさ、短調指向、リフ指向の楽曲が散りばめられているのがわかるからです。
BCRの次のアルバム『風のストレンジャー』ではこの傾向はすっかり姿を消すのにです!

「ラブ・フィーバー」のAメロで聴けるバックのリフの音はまさにパットの音ですし、このリフは後のパットの曲「ファンキー・ミュージック」「ライト・ア・レター」に酷似しています。
意外にもパットは、これらの憂鬱なムードを持つ曲を好んで書いているのです。
これらの曲調は、パットが影響を受けたスティービー・ワンダーの名曲「Superstation」にそっくりです。

『恋のゲーム』で著しい成長を遂げているのが、ウッディのベースです。
キップ時代に培っていたパットとのコンビネーションが、ジャムセッションの中で 彼のベーシストとしての成長を促したのでしょう。
「夢の中の恋」のイントロなどは絶妙です。

パットの意外な貢献で「バンドの音」ができていくことに、最初こそ新鮮だったものの 焦りの気持ちを抱いたのは、今までBCRの楽曲を一手に引き受けていたエリックだったでしょう。
自分とのコンビ以上にウッディと親密なパットに、自分が作り上げてきたBCRの音楽性を勝手に変えられてたまるかというエリックのジェラシーは、容易に想像できます。
さらに興味深いエピソードもあります。


■2006/08/15 (火)今こそ!BCR 21:It's A Game 3

レスリーのインタビューによれば、この時のエリックの演奏はこっそりプロの手に差し替えられていたらしいです。
おそらくエリックの希望でカヴァーすることになったボウイの曲「炎の反逆(Rebel Rebel)」のプレイが差し替わっていることに気がつき、巨額の経費を使い再録音したために発売が遅れたらしいのですが。

もしこれがスタジオミュージシャンではなく、パットの演奏だったとしたら?
エリックの自尊心はボロボロに傷ついたことでしょう。
「新米で若造のパットなんかに、オレが苦労して作り上げ支えてきたBCRの楽曲を勝手に変えられてたまるか!」こんな声が聞こえてきませんか?
パットの父親が息子のギャラの低さに憤慨し、ギャラアップをタムに電話で要求したことは 事実のようですが、それがパット解雇の絶好の表向きの理由になったのではないでしょうか?

それからもう1点。なぜ急にこのアルバムから、歌詞の内容が大人っぽくセクシーになったのでしょう?
僕はこの謎も、先のレスリーのインタビューに答えのヒントがあると思います。
それは本格的に全米ツアーを始めたことと密接に関連しています。
アメリカのプロモーターすなわち地元のコンサート主催者は、バンドメンバーのためにグルーピーと楽しめる場所を用意するのです。
メンバーをセックス&ドラッグにのめり込ませることが、つらく長いツアーを成功させるために効果的だからです。
クイーンもエアロスミスもピンクフロイドもこの「アメリカ的洗礼」を受け、音楽性を変えていきました。
そしてBCRも例外ではなかったのです。
レスリーは、毎晩のようにグルーピーと肉欲を満足させていたことをインタビューで激白しています。
表現者であるエリックが、性愛や哲学についての思いを歌にするのはいたって自然なことです。
こうして結果的に「背伸び」をしたローラーズが真っ先に考えたことは 黄金期メンバー、アランの復帰だったでしょう。
しかしその時アランは、自らのソロデビューを控え、曲作りで多忙を極めていました。
(もうマスコミの前に出るのはいやだといっていたくせに!)
それで仕方なく、へたに音楽性を変えられるような新メンバーを入れるぐらいなら しばらく4人で活動しよう、ということになったのではないでしょうか?
全ての辻褄がこれで合いませんか?


■2006/08/16 (水)今こそ!BCR 22:Scotties

BCR在籍時の音楽の話をしたがらないパットは、解雇後タム側から相応の印税をもらったはずです。
でなければ普通、裁判を起こすはずですから。
しかも、宙に浮いていた以前のバンド、ワッツ・アップのデッカとの再契約を脱退後2週間という速さで進め、たった4日でデビューシングルをレコーディングしてしまったのです!
何より日本での高い人気に、デッカ側もやる気満々でした。
カワイイ顔して、実はパット、したたかだったのです。
ワッツ・アップから、パット・マッグリン&スコッティーズと名前を変え、 67年タートルズがヒットさせた「あの娘はアイドル(She'd Rather Be With Me)」 をひっさげて、77年6月、スピード再デビューを果たします。

まさにこの曲が、中学時代の僕がリアルタイムで出会った「初めての洋楽」で、今もとても思い入れがあります。
(2008年に初CD化されました。)
BCRのメンバーは、パット復活にさぞや驚いたことでしょう。
何よりタムが、ショックだったといっています。

この後、同名のアルバムを発表。
日本での反響も凄まじいものでした。
ところが、突然矢面に立たされたバンドメンバーはその変化についていけず、すぐに2名が脱退。
何とか10月に来日し、BCR並みのTV出演と全国ツアーを消化して、売り上げも上々でした。

2枚目の「想い出のサマータイム」もヒット。これもいい曲でした。

4枚目のシングルには、モンキーズの代表曲「デイドリーム(Daydream Believer)」が選ばれました。

(僕はこのカヴァーのほうを先に聴いたのでした。)

間もなく実兄であったダンも、アイドル弟のバックという地位に耐えられず脱退。
(彼はゲイで、近年エイズで他界しています。)
幼なじみのイケメンドラマー、ブライアン・スペンス(彼も90年代に交通事故で他界)とのコンビでしばらく活動することになったものの、時代の激変、パンクブームの到来で 売れるのは日本だけという状況に陥ります。

78年3月、日本側の企画で作られたバースデイ・アルバムのリリースと、5枚目シングル「マイ・リトル・ガール」(これも名曲!)の発売が、メジャーシーンでの 最後の活躍となり、その後いろんな活動をするも泣かず飛ばずの状況で、83年、BCR夢のリユニオンを迎えるのです。


■2006/08/17 (木)今こそ!BCR 23:Rosetta Stone

アイルランドに戻り、昔のバンド仲間と再会したイアン・ミッチェルもまた、活動を再開します。
パットのケースと違い、脱退後も彼はタムと連絡を取り合っていました。
4人になったBCRは、音楽的なことは今後自分達でやりたいという強い希望があり、それに同意したタムは、BCRにかけていた時間をお気に入りのイアンに注ぎ込むことにします。
こうしてイアンのバンド、ヤング・シティ・スターズは、ロゼッタ・ストーンと名前を変え、パットに遅れること2ヶ月、77年8月に、英プライベートストックより、クリームの名曲「サンシャイン・ラヴ(Sunshine Of Your Love)」でデビュー。

続く2枚目のシングルが、エイメン・コーナーの名曲「二人のパラダイス(If Paradise Is Half As Nice)」でした。
この曲はBCRのナンバーと比べても遜色のない彼らのマスターピースです!
(2008年にCD化されました。)

ロゼッタ・ストーンは、デミアン、テリー、コリンのマッキー3兄弟が中核のバンド。
ヴォーカルの長男、デミアンがハイトーンの伸びるいい声をしていました。
78年1月にデビューアルバム『青春の出発(Rock Pictures)』を発売。
これももっと再評価されるべき名盤で、「ジュディ・ジュディ・ジュディ」など名曲揃いです。

そしてアルバム発売に合わせ、イアンにとっては念願の初来日。
BCR、パットと立て続けの来日が続いたのにも関わらず、熱狂的に迎え入れられました。
しかし、残念ながらやはり時代の変化に彼らもまた取り残されてしまうのです。

79年1月にリリースしたセカンドアルバム『明日への挑戦(Caught In The Act)』は全く売れませんでした。
タムは、ステージで腰を振り、バンドの音をハードにしてしまう長男デミアンを脱退させようと画策します。
若き日のリマールをバンドに入れようとするものの、兄弟の固い結束に阻まれ断念。
これがきっかけで、バンドはタムを首にします。
これに反対したイアンも、ロゼッタ・ストーンを脱退することになるのです。
79年5月、イアンはオーディションでメンバーを集め、イアン自らが歌うバンド、 イアン・ミッチェル・バンドを結成(これにタムが絡んでいるかどうかは不明)。
デュランデュラン風の衣装で2枚のアルバムを出すも日本のファン以外には話題になりませんでした。
イアンの声に魅力がなかったのです。


■2006/08/18 (金)今こそ!BCR 24:Strangers In The Wind

BCRに話を戻しましょう。
パット脱退を機にタムに対し「初めての反抗」をしたメンバー。
タータンファッションも控え、タムはエリックに音楽的イニシアチブを託します。
こうして4人になったBCRは77年6月から全米ツアーを開始。
『恋のゲーム』も上々の売り上げを記録しました。

同年9月、再び日本へ上陸。
前回を上回る約1ヶ月、全国18カ所の公演を敢行します。
多数の音楽雑誌が相次いで特集本を発売
これが当時を知る貴重な資料となっています。
この模様は録音され、当時ライブアルバムとして発売されるはずでしたが緊急中止。
それから23年を経た2001年、CDで発売されたのはまさに奇跡です。

これを聴くと、上手とはいえないものの4人で丁寧に全曲きちんと演奏していることがわかります。
こうして日本を満喫した彼らは、少し長めの休息を取った後、前回のハリー・マズリンを再びプロデューサーに迎え、6枚目のアルバム制作を開始します。
アリスタ社長の強い要請もあり、前回の音楽性は踏襲せず、以前のBCR色を出す方針がとられます。
その結果、やはりBCRにはオリジナルメンバー、アランが必要だということになりました。アランはソロシングルを発売するも売れず、結果アルバム発売の予定も白紙に。
ゆえに彼にとってはまさに渡りに船のカムバックでした。

今回のスタジオは、翌年にクイーンが気に入り買い取ることになる、スイスのマウンテンスタジオ。
さらに伝説のセッションキーボード、ニッキー・ホプキンスが参加していることは意外なトリビアです。
3ヶ月以上時間をかけ、湯水のように経費を使い、78年9月、3度目の来日に合わせて『風のストレンジャー(Strangers In The Wind)』が完成しました。

これは個人的に大好きなアルバムで、Falkner/Wood名義の曲は今回6曲になり、しかも名曲揃い。
ハードさもファンキーさも抑え、カーペンターズを意識した大人のバラードが中心で、円熟味、厭世的ともいえる貫禄が漂っています。
「雨のニューヨーク」「世界は恋してる」「愛はいつまでも」そしてタイトル曲 「風のストレンジャー」は、もっと多くの人に親しまれるべきスタンダードナンバーです。


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