明石隼汰の上京物語 第一部「劇団篇」

このエッセイは、2009年7月、今はなき「さるさる日記」を使った「明石隼汰の夜明かし日記」で連載し、後にMixi日記に再掲した「上京物語」を再々掲したものです。


1

1987年。23歳。自分の人生が大きく変わるこの年から、自分は今でも解き放たれていないように感じます。

その2年前、アメリカ留学で学んだ作曲メソッドと異文化体験で自信を深めた僕は、函館の教育大学を留年せずに卒業、意気揚々と上京の計画を立てていました。
まず自分のウリとなるデモを、実家・福島の自宅でじっくり3曲作り、それを引っさげて上京し、メジャーデビューをつかもうというもくろみでしたが、僕にはひとつ、足りないものがありました。
それまで(アルバイトも含め)、ちゃんと仕事というものをしたことがなかったのです。

まず5月頭、先にいち早く上京し、芸大への入学を狙っている大学時代の級友のところに一週間ほどころがり込み、営業兼リサーチ。
お世話になった実家の音楽関係の方から紹介していただいた、音楽制作社やPA会社を一通り回りましたが、そう簡単にいい就職先はありません。
最終日、コンビニで買ったフロム・エーに、こんな記事が。

「作曲家、マネージャー募集。日給1万円。ニューヨーク公演あり。劇団○○座」

うひょ。あやしさ満点! とわかりつつも、冷やかし半分で行ってみることに。
荻窪にある某劇団の練習場に着くと、いかにもミュージシャン風情の若者が50人ぐらいわんさか押し寄せていました。
その中心にいるいかにも業界の社長風情のおやっさんがひととおり説明を終えた後、
「この中で、今すぐ仕事が欲しいやつ手挙げて。」
というので、すかさず挙げてみました。僕を含め3名。
「じゃ君たちはちょっと残って。」といわれ、他の人たちが帰った後、20分ほど歩いて、吉祥寺にある事務所へ通されると、寿司を出され、ひとりずつ身上話をさせられたのです。

ひとりめの人は、前の日に大手有名ホテルのコンシェルジュをリストラされた人でした。すると社長とおぼしきおやっさんはこういうのです。
「君は明日から、僕が経営するライブハウスの店長をやらんか。」
・・・!みんな目が点です。

ふたりめの人は、長いことアメリカで通訳をしてきた人で、あの津軽三味線の巨匠・高橋竹山の海外公演なども手がけた人でした。
「では君は早急にニューヨークに飛んで、うちの支部を立ち上げてくれないか。」

そして、僕の番です。
・・・つづく。

(2009/7/14初掲)


2

僕が持参した例のデモを聴かせ、作曲家を目指している旨伝えると、おやっさんは奥の6畳部屋を指さしました。
「明日からここに寝泊まりして、オレの下で研修を積んでみるか。」
ええーー!
すぐ連絡しますんでちょっと時間を下さい、というと、他の2人も「私も」(笑)
狐につままれたような3人は、お互いどうするんだ、詐欺かもしれないし、と顔を見合わせながら、吉祥寺駅へと向かったのでした。

実家への帰路へ向かう東北新幹線でめいっぱい悩みました。
で、結局、そのアヤシさ満点の縁に賭けてみようと思ったのです。
実家から、さすがに今日の明日では準備が足りないことを電話で伝え、6月の頭に上京する約束を交わしたのでした。
そしてその日は遂にやって来ました。

吉祥寺駅に着いて最初に食べたカレーの味をまだ覚えています。
ムスッとした店員さんに水をドンと置かれたのが、東京の洗礼でした。

おやっさんの劇団は、シェイクスピアや「レ・ミゼラブル」といったいわゆる教育的芝居を専門にし、都道府県の小中学校に営業をかけて、バン1台で全国をドサ回りするところでした。
昼間は劇団の研修生。劇団員と一緒にダンスの練習や発声をし、大道具小道具を作ったり、小間使いのような仕事。
夜は彼の経営するライブハウスの厨房で、皿を洗ったり、カクテルを作ったり。
(そう、ひとりめの人が店長にと誘われた店です。結局、彼からの連絡はありませんでした。)
空いた時間で、劇団用の音楽を作る、という日々が始まりました。
小遣いは月5万。日給1万円はどこへやら。

厨房は苦手でカクテルをよく作り間違え、手際の悪さを怒られましたが、劇団員の多くが同世代だったこともあり、意外にストレスもなく新生活に馴染めました。
本当の苦労をまだ知らずに。

研修生活2週間が過ぎた頃、突然おやっさんに呼び出されました。
「実は、こないだ募集したやつらで芝居をやらせたんだが、ほとんどのやつが辞めてしまったんだ。おまえ何とかできるか?」

話を聞いてみると、おやっさんは集めたミュージシャンを使って、コンパクトなミュージカル劇団を作る気でいたのでした。
例の日給1万円という話は、あくまでも芝居の体裁が整ってからの話。
それまではノーギャラでセリフを覚え、劇伴(芝居用の音楽)を作曲・演奏しなければいけなかったのです。そりゃやめるわ!

演目は「ヴェニスの商人」。本番は2週間後に決定済み。場所は、札幌!
・・・つづく。

(2009/7/15初掲)


3

よっしゃ!ここで一旗上げちゃろかと、おやっさんのむちゃぶりを受けて立つことに。

まずは早急なメンバー探しから。
今残っているメンツは、歌える女性2名、ベースが弾ける男1名、キーボード男1名の4名。
ドラマーとギタリストがいない!
そこで白羽の矢を立てたのが、僕の高校時代のバンド仲間、T君とK君でした。
凄腕ギタリストだったT君は僕より一足早く上京していたのですんなり交渉成立。
問題は福島在住の、僕が4歳からの幼なじみ、ドラマーK君。直接電話し、上京してちょっと仕事しないかと直談判。
彼も上京のチャンスをうかがっていたのであっさりOKの返事。

これでメンツは揃いましたが、問題は芝居。
この際演技力は二の次と開き直るしかありません。しかも本番まで10日を切っていました。
朝から晩まで、地獄の特訓開始です。
ちなみに僕の役は、悪役シャイロック。
福島のハードロックシーンで大活躍した助っ人達は、そのステージ経験と集中力で、みるみる芝居がサマになってきました。
多少の福島弁アクセントも、この際アジです。
芝居の幕間の演奏はバッチリ!僕がテーマ曲を書き下ろしました。
残念ながら音源は残っていませんが、「♪ショ~ニン、ショ~ニン」(笑)とキャッチーなサビの曲でした。

本番前日。1台のバンに機材一式詰め込んで、おやっさん含め総勢9名で東京から札幌までの車旅。
ほぼ徹夜で運転し、翌朝札幌到着。
休む間もなく会場(公会堂みたいなとこの大ホール)でセッティング、リハ。
そしてそつなく、本番。午前と午後の2公演は、大成功のうちに終了!
学校の特別授業扱いなのでしょう、複数の小中学校から数百名の児童生徒が見に来ていました。
生徒からサインをねだられ「シャイロック」と書いた記憶が・・・

帰路、おやっさんのはからいで実家・福島のホテルに宿泊。
出てきたばっかの実家にひょいと戻る、ミョ~な体験をして、無事帰京。
おやっさんからお礼をいわれたのでした。
これが僕の最初の「仕事」だったわけです。

この「奇跡の旅」に一役買ったのが、僕の幼なじみK君。
自ら率先して重いものを持ち、先の先を読んで動く、たたき上げで鍛えた仕事力を、おやっさんが見逃すはずはありませんでした。
晴れて彼もまたおやっさんに雇われることとなり、見事上京を果たすのです。

東京に戻った次の日、またまたおやっさんに呼ばれました。
「おまえ今度は、営業やってみないか?」
実はそのときまだ「営業」の意味をよくわかっていませんでした。

・・・つづく。

(2009/7/16初掲)


4

おやっさんが次に力を入れたがってたのは、劇団ではなくライブハウスでした。
営業とはここではブッキング、すなわち都内の練習スタジオを飛び込みで回り、練習中の若者に「うちのライブハウスに出ない?」と誘う仕事です。
蒸し暑い初夏の東京を一日歩く日々が始まりました。

あるスラッシュメタル(うるさい!速い!ヘビメタのジャンル)バンドに声かけたときは、
「ぜひ演奏聴いて感想聞かせて下さい」と、その場で4曲立て続けに演奏されたのですが、曲の違いがわかりません(^^;;
「う~ん2曲目がよかったかな」と当てずっぽうにいったら、「わかりますか!これ僕らの代表曲なんです」と喜ばれ、出てくれることになったことも。

あるスタジオで休憩中タバコ吸ってる若者に声をかけた時です。
若者は急に怒りだし、「人がせっかく気持ちいい思いでいたのに貴様に声かけられて気分悪くした!」と僕に因縁をつけてきました。
体よくごまかしてチラシだけ渡して店に戻ると、彼は子分を2人引き連れ、開店直前の店に現れたのです。
「やっぱり胸くそ悪くなってきたから、てめえに土下座して謝ってもらいにきたんだよ!」
僕は生まれて初めて、屈辱的な土下座をするハメになりました。

僕がブッキングしたバンドが急に当日キャンセルになった夜。
別なバンドの手配が間に合わず、そのバンドは3バンド中2バンド目だったため、埋め合わせをしなければなりませんでした。
最初のバンドは僕がブッキングしていない、う~んこんなレベルで人前で歌っていいんかい!というレベルの人たち。客席も盛り下がりです。
そこで僕がオリジナル曲をカラオケで歌うことに。
若き日の代表曲「火神ゴーラ」を歌ったところバカ受けで、大歓声に包まれてしまいました。
その時ひとりの客が僕に向かってこう叫ぶのです。
「こんなに盛り上がりやがって!最初のバンドに申し訳ないと思わないのかっ!謝れ!」
客は最初のバンドの友人でした。
ここでも僕は、ステージで客席に謝らざるを得ませんでした。

人と関わる仕事は、時にこういう理不尽な思いをすることは避けられないということを、僕はこのとき学びました。
しかし、ここまでの屈辱をこんなに立て続けに味わったのは初めてです。
不満は一気に高まります。

・・・つづく。

(2009/7/17初掲)


5

ある日、外回りから事務所に戻ると、見たことのある顔が声を張り上げおやっさんと話をしています。
最初の日、一緒に手を挙げた元通訳の人でした。
彼はニューヨークの知人に事務所を探してもらっており、その見積もりを持って来たのですが、例のミュージシャンを集めて芝居をするプロジェクトが頓挫した時点で、おやっさんは海外公演の興味をなくしてしまったようなのです。
しかも交通費は、他の用事があったらついでに頼む(つまり自腹!)ぐらいでいたらしく、本気で仕事する気でいた通訳の彼は、話が違うと憤って帰って行きました。

この様子を見て初めて、ちょっとおかしいんじゃないかと思うもすでに遅し。
いやな経験をさせられ、友人まで巻き込んでしまった、その不満はピークに。
でも当時の若かった僕は、ここを辞めていく、という発想ではなく、このおかしさを直さなければ、と思ってしまったのです。
僕は自分の憤りを、おやっさん本人ではなく、親しい劇団員やライブハウスのスタッフに愚痴ってしまいました。
当然すぐにその話はおやっさんに伝わり、呼び出されることに。

「これはオレの劇団で、オレのライブハウスだ。オレの方針に賛同できないなら、おまえはクビだ。」
生まれて初めて、クビを宣告させられました。
「一週間猶予をやるから、その間に部屋を探して、出て行きなさい。」
そして最後に、こんなひとこと。
「オレからのお願いだ。部屋は安いのを借りてくれ。親から仕送りしてもらおうなんて思うなよ。そして仕事をするからには、えらそうにふるまうな。」

ガーンときました。
初めて自分がどんな人間なのか、客観的に思い知らされたのです。
教師の両親のもとで、自分は人より優れている、という自負心を育み、親のカネで留学し、なんの仕事もせぬまま大学まで卒業してしまった、すねかじりのボンボン息子。
土下座を強要した若者も、僕の生意気な印象が悪くてそうさせたのかもしれない。
客席で怒った人も、僕の不遜な態度に腹を立てたのかも。
立場を考えない言動で、世話になったおやっさんに不義理をしてしまった自分の未熟さ。

世話好きのおやっさんはそんな僕の欠点を見抜き、得難い社会経験をさせてくれていたのでした。
今の自分は、この不思議な縁「奇跡の3ヶ月」なしにはありえないでしょう。

8月の終わり、初めて東京でできた友人達と別れ、明大前徒歩3分のところに、家賃月2万円、4畳半のアパートを借りました。
本当の試練は、実はここから始まるのです。

・・・つづく。

(2009/7/18初掲)


6

後日談。
幼なじみのドラマーK君はその後、おやっさんに手腕を認められ、ライブハウスの店長に昇格。
3年かけて、吉祥寺の音楽シーンには欠かせない「ハコ」へと成長させました。
僕も、自分のバンドで何度も出させてもらうことに。

そのライブハウスは今も立派に存続中です。
ライブハウス・クレッシェンド
http://kichijoji-crescendo.net/

さらに数年後、K君は店長の座を後輩に譲り、実家・福島へ帰省。PA会社を立ち上げ、現在も忙しく活躍中。
不思議な縁で、美人の奥様は、僕が毎年夏、福島の「わらじまつり」で歌うユニット「ワラジーズ」の歌姫、ともちゃん!
そしてK君は、わらじまつりになくてはならない、現場のメインPAを毎年担当し、ワラジーズの歌うマイクの音声を大音量のスピーカーへと渡す役割を担っています。

ギタリストのT君は、しばらく僕と一緒にバンドで活動し、今のユニット、ホロニック・プラチナムの代表曲、「天使の詩」の印象的なイントロを作り上げました。
が、ある理由があって10数年後、袂を分かつことに。
今は音信不通です。

おやっさんは数年後、余生を送りたいと、劇団をたたみ、ライブハウスの経営を当時の店長にゆずって、実家の広島に帰省したことを、風の便りに聞きました。

上京から10年が経った1997年のある朝、ギタリストT君から電話で起こされました。
「早く、テレビつけてみろって!」
眠い目をこすりテレビをつけると、おやっさんがでかでかと映っているじゃありませんか!

皆さんも覚えておられるでしょう。広島の海でイカダの上に家を建て、悠々自適に生活するも、条例違反だと排除命令が出され、それに抗議してイカダの上でガソリンをかぶって抵抗した、「イカダおじさん」こそ、おやっさんその人なのです!

その騒動を見て、僕はニヤリとしました。あー、変わってない!
奇抜な発想力と行動力、そして義理人情を重んじ、世話好き。
誤解されやすいけど、マイペースで周りを巻き込んでいく、憎めないキャラクター。
その後も、おやっさんのお世話になり人生を変えた人が必ずや何人もいることでしょう。
今もずっと感謝してますよ!いつかまた再会したいものです。

閑話休題。

・・・つづく。

(2009/7/19初掲)


第二部「アルバイト篇」へつづく


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