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木から宇宙を妄想

最近僕は明治神宮が好き。ピーク時は月に5回は行ってた。あそこの木たちは、原生林なのかと思ってたら、90年前に当時の最先端の学者さん達が集まって、どこの部分になんの木を植えるのが森が育つのに効率が良いかアイデアを出し合って作った森だと聞いた。

本殿のお参りする目の前にご神木が2本立っているのだけど、結構かっこいい。枝の伸び方とか整え具合になんとなく宇宙を感じる。そこからさらにご神木を通して宇宙を考えてみた。

木には目や耳が付いていないので自身の周りがどうなっているかわかっていないと思うのだけど、葉っぱが酸素や光を吸収して光合成している。光のある方へぐいっと伸びている。もっと光ほしいぃみたいに。まるで生きているみたい。生きているんだけど。

木にとっては、自分の体とその周りの部分は存在の仕方の次元が違うんだけど、光合成によってがっちり繋がっている。木にとったら太陽が神。

木が宇宙だとしたら、その周りの部分は宇宙の外。宇宙はまだ広がり続けているし、その外は解明されていない。

宇宙の外はこの世界とはきっと次元が違うから人間には解明できない。木に目が付いていないのと一緒。でも木が光合成で宇宙とがっちり繋がっていて、木は宇宙を求めている。

宇宙の外の部分は多分、無ではなくて僕らにとってめちゃ大事な何かがある。はず。その部分て何か考えたり、なんとなくその部分に感謝したりするのは大事なことな気がする。

ここまでを人間に置き換えてみると、脳みそが宇宙。その周りの世の中が宇宙の外。人間には目とか耳とかがあるので色々な世界を理解できるけど。

人間の場合、脳みそが外の世界を見たいから、目とか耳とか感覚を付けたという感じか?時々、脳に自分は操作されているんじゃないかと思うことがある。脳が自分自身のはずなのに、心臓とか内臓を自分で制御出来ないし。もしくは何かセンス的なもの、もしくは宇宙の外のもっと別次元のものが僕らを司っているかもしれない?

例えるなら脳みそが宇宙で、、、と書いたけど、というか実際の僕らが生きているこの世界や宇宙に僕らの脳は時計の歯車みたいに直接連動している気もしている。

遠い宇宙からこの世界を頭の中で想像して、例えばより良い世の中になる妄想とか、平和とか、お金欲しいとか、その過程とか妄想するのがいいような気がしている。

というようなことを明治神宮で考えてます。

これにて今回の赤須翔の危険思想ブログを終わります。

P.S 僕は無宗教です。

2015-09-15