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僕が「教育」に関わり始めたワケ

by 福岡俊弘(F岡)

デジタルハリウッド大学というファンシーな名前の大学で教鞭をとってから今年でちょうど10年になります。初年度に作ったシラバスをこの10年間、多少の改修をしながらなんとか使い回してきたのですが、教材として使用しているスライドもさすがに古さを隠せなくなり、今夏、全面再構築の真っ最中です。そのせいで外界の暑さ以上に脳内がヒートしている残暑の盛り、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

そんなわけで、秋葉原プログラミング教室を運営する株式会社UEI エデュケーションズ代表の福岡です。“F岡”と表記したほうがなじみがあるかもしれません。はい、かつて『週刊アスキー』の伝説的編集長と言われたF岡です。“伝説的”は誰も言ってくれないので自称です。このブログは、弊社会長の清水による投稿が基本ですが、僕も合間に雑文を書かせていただきますね。昔の歌舞伎で言えば、物語のヤマ場とヤマ場をつなぐ弁当幕のようなコラムなので、テンションを緩めてお読み下さい。

以前、と言っても週刊アスキーを始める前ですが、元々、僕は教育ということに関してさほど興味はありませんでした。高校時代はおおよその先生と折り合いが悪く、大学生になってからは、キャンパスよりも雀荘にいる時間のほうが圧倒的に長い、そんな不真面目な学生でした。社会に出てからは振る舞いのほうは多少はまともになりました。が、20代のときは、2、3年で職を転々としていました。なので、先輩社員から教わったことは2秒で忘れ、後輩社員ができる前に会社を辞める、ということの繰り返しで、「教育? なに、それ美味しいの?」という生意気な上に実力も魅力もない最悪の若者だったわけです。「F岡くんとは二度と仕事がしたくない」。3回ほど本当にそう言われたことがあります。

そんな僕ですが、どういうわけか30歳のときアスキーという会社に転職し、あれよあれよという間に『EYE・COM』というパソコン雑誌の編集長になってしまいます。奇跡、青天の霹靂、驚天動地、天変地異、脳漿炸裂ガール、神をも畏れぬ人事異動によって、“学級委員にもっとも相応しくない人”選手権があれば確実に優勝が狙える、カリスマ性もリーダーシップも皆無な男がいきなり編集長を任されたのです。

会社の不安と絶望を一身に受けながら任された雑誌は、またまたというか、たまたま奇跡的にとりあえずそこそこの部数を稼ぎ出しました。強運。神かよオレ、その傲慢な勢いのまま、5年後、週刊アスキーを立ち上げます。1997年の晩秋でした。そして、そこから頭髪が3度生え替わるほどの地獄が始まったわけです。

特に大変だったのが編集スタッフのスキルの底上げ、という問題でした。

月2回刊だったころに比べて、週刊誌をやるということで、スタッフは以前の2倍弱の陣容になっています。特集記事は、月2回刊の雑誌では1号あたり2本、つまり月に4本の企画を考えればよかったのですが、週刊誌だと単純に考えてその倍の8本の企画が必要です。ところが週刊誌の特集記事というのはどれも短くて、普通は4ページほど、長いものでも6ページかそこらです。なので、雑誌としての読み応えを担保するには1号あたり最低でも5本の企画、月にすると20本の企画が必要という計算になります。

それまでは、副編集長とデスクから成るコアスタッフだけで企画を決めて、台割り(雑誌を作るための設計図みたいなもの)を作っていれば良かったのですが、月に20本の企画となると、そうはいきません。なにしろ年間にすると、240本の企画を考えなきゃいけないわけで、これを一握りのスタッフだけで捻り出すというのはほぼ不可能です。そこで、ヒラの編集部員、さらにはアルバイトスタッフまでも動員して、全スタッフ態勢で企画会議を行なうことにしました。

で、オールスタッフで企画会議をやってみたところ・・・。やっぱりというか、これがヘボい、実にヘボい。呑気がぼんやりの上で胡座をかいているようなヘボい企画が雲霞のごとく押し寄せたのです。

人は勝手に育つ、と考えていた僕ですが、ここに来てようやく「教育」とか「トレーニング」の必要性に気づきます。スタッフの多くは、週刊誌を立ち上げるということで急遽拡充したスタッフです。彼らを早急に企画を立てられる編集者にしなければならない、と。

ちなみにそのころの週刊アスキー編集部が置かれた状況は、債務超過という深刻な経営危機の中、起死回生を託された(託すなよ)羊の群れのようなものでした。上手くいかなければマトンとして出荷される、いえ、会社ごとマトンになりかねない、だから絶対に成功してくれよ、という希望の星、砂の中の銀河こそが僕たちだったのです。

あらゆる危機と心配事を積極的にスルーしてきた僕でしたが、さすがにこのときは真剣です。2週間かけて、見よう見まねで編集者育成カリキュラムを作成し、実際に編集スタッフを集めて研修を行ないました。“企画100本ノック”という、これ以降、週アスの黒い伝統となる徹夜研修もこのときに誕生しました。

これが僕の初めての「教育」体験です。

このときに懸命に考えて作った、編集者が企画を立てていくための創造性を目覚めさせ、想像力を誘発せんとした4時間程度の研修スライドが、その後、専門学校のデジタルハリウッドでの“編集力養成講座”として8単元のカリキュラムになり、さらに、学生向けに改良して、デジタルハリウッド大学の「情報編集」という授業の基本的な骨組みとなりました。

この10年のうちに教える題材は少しずつ変化しています、が、エッセンスは不変です。それは、聞くよりも考える時間を多くとること、理解するよりも実践すること、頭の中で考えたことは必ず声に出して出力すること、です。プログラミング教室でいうと、プログラムを考え、コーディングし、それをハッカソンで発表する、といった流れになるのでしょうか。

そして重要なのは、企画を立てることでもコーディングを学ぶことでもなく、そこに至るまでにどれほどのイマジネーションをめぐらし、どんなクリエイティビティを発揮できたかです。そんな教室を作るために、気力と体力の続く限り、この秋葉原プログラミング教室で頑張ってみたいなあ、と思っています。


▪️筆者プロフィール:福岡 俊弘(F岡:@290cart)
株式会社UEIエデュケーションズ 代表取締役社長
長きにわたり『週刊アスキー』(株式会社アスキー刊行)編集長を務めたのち、デジタルハリウッド大学など高等教育機関で、今現在も、デジタルを中心としたコミュニケーションについて教鞭を執っています。

・秋葉原プログラミング教室:https://www.akiba-programming-school.com

・ ニコニコニコ生放送公式チャンネル「少年マイコン」: http://ch.nicovideo.jp/akiba-cyberspacecowboys
( 毎火曜〜金曜 12:00〜13:00 放送中)

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