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今宵、山の上ホテルのバーで


知人宅での忘年会のあと、ぼくと妻は御茶ノ水にいた。
楽しかった余韻が熾火のように残っていたので、このまままっすぐ帰宅するのも名残惜しく、バーで一杯飲んで帰ろうと思い立った。すぐに思い起こしたのが、山の上ホテルだった。言わずと知れた老舗のクラシックホテルだ。作家の“缶詰”部屋として名を馳せているけれど、老朽化のため来年休館となるニュースを耳にしたばかりだった。

ぼくは深夜に幾度かこのホテルにあるバーに訪れていた。もう10年ばかり前のことになる。
当時の仕事仲間と、夕食後の二軒目か三軒目にこのホテルに辿り着き、最後の締めとして一杯飲んでから、車寄せにタクシーを呼んでもらい、各々の自宅に帰っていた。

十年一昔とはいうけれど、久しぶりに来訪した山の上ホテルは、何も変わらなかった。築86年になる建物は、もはや10年くらいの経過では変わりようもないのだろう。

ロビーの一角にある、カウンター数席だけの仄暗い小空間。壁一面の酒瓶。ロビーから続く赤い絨毯。ステンドグラスから洩れる灯。重厚な木製カウンターの優美な曲線。
落ち着く。自ずと話す声も密やかになる。
ぼくはダルウィニー15年という聞いたことのないシングルモルトを勧められて飲み、妻はハーブとグレープフルーツのカクテルを頼んだ。品のよい初老のバーテンダーがお酒を作ってくれた。綺麗に象られた氷が完全に透き通っていた。写真には写らないグラスの中の透明。

休館になったのち、建物が解体されるのか、補修して営業再開されるのかは従業員にも知らされていないらしい。隅々まで手入れが行き届き、長年積まれてきた濃密な空気がどこかに零れ落ちていくような心地だ。

10年前に飲みに連れてきてくれた先輩のことを思い出す。もう長いこと会っていない。不義理をしてしまっている。今は妻帯してバーに飲みにきていると聞いたら、きっと驚き喜んでくれるだろう。
ぼくはあのころ、お金はなくとも気持は朗らかで、ていねいで、思慮深く、消耗せず、泰然とした人物になりたかった。10年前よりは少しくらい理想に近づけているだろうか。

カウンターはすぐに満席になり、ぼくらは店を出た。
会計で現金払いをすると、お釣りの千円札を新札で渡してくれた。これぞ老舗の所以だ。外には建物外観を写真に収める人びとがいた。大通りに向う坂道を下りながら、ぼくはもう後ろを振り返らなかった。


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