まだ聞こえる。
私はまだおじいちゃんの声が聞こえる。
亡くなった方の声が聞こえなくなるのは自然な事で、むしろ聞こえなくなるほうが自分自身は一歩前へと進んでいると、聞いた事があります。
でも聞こえる。
私はまだおじいちゃんから卒業できていないのだと。卒業できないぐらい、おじいちゃんの死は私にとって重く、悲しいものなのだと。
その事が自分の甘さを露見しているように思っていました。
でも最近の命を軽んじている事柄を見るたびに、「死」を重く受け止めるべきだと。「死」を感じ、噛み締める時間は大切だと思います。
ゲームやテレビ、映画、日々の情報で得る「死」ではなく、身近な大切な人により体験した重い「死」を噛み締め、胸に留めるべきだと。
希薄になりがちな人間関係。楽な関係でもあるけれど、大切な何か置き去りにしている。
私にとっておじいちゃんの「死」とは。
私の心の一部がもぎ取られた事に等しいです。でもその一部を補うために、人と人との繋がりを大切にする事を、心を強くする事を
ゆっくりと学んでいる気がします。
私はこれから先も、きっと声を聞き続けるでしょう。その声が優しい温かい声となり、心のなかで穏やかに会話出来た時、本当に一歩前に進めると思います。
そう信じて。
一歩前へ前へ。今日もおじいちゃんの声と共に進みます。
ではまた明日。と言える幸せを噛み締めながら。
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