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【貧窮組】左翼の本質


中里介山の『大菩薩峠』は、幕末を舞台にしていますが、社会問題については、大正、昭和の介山自身が感じた、リアルタイムの世相を描いています。
事実介山は、社会主義運動の本末顛倒さに直面して、きっぱり決別したと言われています。

現今「戦前回帰」とも言われていますが、この戦前回帰説を採るならば、次に紹介する貧窮組の横暴こそ、現在のシミン運動に近いものではないでしょうか。

さて

昌平橋に程遠からぬところに住居している金貸しの忠作の宅へ、近ごろ組織されたいわゆる貧窮組が押しかけます。

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ドヤドヤ入って来たものがあります。
「それ、やって来た」

忠作は苦い面をして玄関へ出て見ると、威勢のよい遊び人風をしたのが二三人先へ立って、あとは雑多の貧窮組。

「へえ、御存じの通り町内でも貧窮組をこしらえましたから、こちら様でも、どなたかおいで下さるように。もしお手少なでございましたら、幾分か費用の寄進についていただきたいものでございます」

それを聞いた忠作は、
「せっかくでございますが、私共は無人でございますから」
「それではどうか、思召しの寄進をお願い申します、この通り町内様でみんな賛成をしていただいたんでございますから」

帳面を繰りひろげて、鰻屋では米幾俵、薪炭屋では店の品幾駄というように、それぞれ寄進の金高と品物の数が記されたのを見せると、
「宅なんぞはこの通り裏の方へ引込んでおりまして、とても表通りのお歴々と同じようなお附合いは致し兼ねまする、どうかそれは御免なすって下さいまし」
「それでは、誰か貧窮組へ出ておくんなさるか」
「宅は女と子供ばかりで」
「やい、ふざけやがるな、貧窮組を何だと思ってるんだ、ぐずぐず吐すとこっちにも了簡があるぞ」
「皆さんの方に了簡がおあんなさるなら、了簡通りになさいまし、宅では貧窮組なんぞへ入る人間は一人もございませんし、そんなところへ出すお金なんぞ鐚一文もございません」
「何だと、この若造! やい、みんな聞いたか、今のこの野郎の言草を聞いたか」

威勢のいい兄いが片肌を脱いでしまいました。
それに続いた面々がみな眼を三角にする。
「貧窮組なんぞへ入る人間は一人もねえんだとよ、そんなところへ出す銭は鐚一文もねえんだとよ、みなさん方に了簡がおありなさるなら了簡通りになさいましと吐したぜ。べらぼうめ、了簡通りにしなくってどうするものか、貧窮組を何だと思ってやがるんだ、憚りながら貧窮組は貧乏人だ」
「ここの宅は、これで金貸しをしてやがるんだ、貧乏人泣かせの親玉はここの宅なんだ、いまのあのこましゃくれた若造が、あれで鬼みたような奴なんだ、主人はお妾上りだということだ、金持を欺して絞り上げたその金で、高利を貸して、今度は貧乏人の生血を絞ろうというやつらなんだ、だから貧窮組が嫌いなんだろう、誰も貧乏の好きな者はねえけれども、時世時節だから仕方がねえや、ばかにするない」
「貧乏人がどうしたと言うんだい、そりゃ銭金ずくでは敵わねえけれど頭数で来い、憚りながらこの通り、メダカのお日待のように貧乏人がウヨウヨいるんだ、これがみんなピーピーしているからそれで貧乏人なんだ、金があるといってあんまり大きな面をするない、これだけの頭数はみんな貧乏人なんだ、逆さに振ったって血も出ねえんだ、その貧乏人が組み合ったから貧窮組というんだ、貧乏でキュウキュウ言ってるからそれで貧窮組よ、ばかにするない」

大勢の貧窮組が口々に悪態をつき出したけれど、忠作は意地っ張りで、
「何とおっしゃっても私共は、皆さんが貸せとおっしゃるから貸して上げるだけの商売でございます、なにも皆さんに筋の立たない金を差上げる由がございませんから」

こう言い切って、玄関の戸をバタリと締めてしまって、中へ引込んだから納まらない。
「それ、打壊してしまえ」

ついに貧窮組がこの家の打壊しをはじめました。
貧窮組の一手は、ついに忠作の家をこわし始めました。火をつけると近所が危ないから火はつけないで、門、塀、家財道具を滅茶滅茶に叩き壊します。
忠作は素早く奥の間に駈け込んで、証文や在金の類を詰め込んで用心していた葛籠の始末にかかると、いつのまに入って来たか覆面の大の男が二人、突立っていました。

この大の男は、貧窮組とは非常に趣を異にして、その骨格の逞しいところに、小倉の袴に朱鞘を横たえた風采が、不得要領の貧窮組に見らるべき人体ではありません。
忠作が始末をしている葛籠のところへ来て、黙って忠作の細腕をムズと掴んで捻じ倒すと同時に、一人の男はその葛籠を軽々と背負って立ち上ります。

「どろぼう!」
忠作が武者振りつくのを一堪りもなく蹴倒す、蹴られて忠作は悶絶する、大の男二人は悠々としてその葛籠を背負って裏手から姿を消す。

貧窮組は表から盛んに叩きこわしていたが、いいかげん叩きこわしてしまうと、鬨の声を揚げて引上げました。
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貧乏人は「正義」で、為政者は権力者であり「悪」だという宗教原理。
それは近代になり、神を捨てた現代人が拾い上げた新たな宗教であり、ここに危険なカルト性があるのではないしょうか。

戦後騒乱期に起きた赤軍派の狂信的内ゲバ殺人も
ある種の宗教性だとしか言いようがありません。

すでに大正・昭和初期に、中里介山が指摘していた社会病理は、21世紀もなおゆるく野放しであることを肝に銘じる必要があるでしょう。

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