れっつ!学歴ロンダリング〜負けた子は起すな

はじめに:身の丈と学歴

というわけでみなさん、身の丈に合わせてがんばってますかー?

なにが「というわけ」なんだ。こんにちは、翻訳家の平野暁人と申します。

わたくしはですね、ほんとなら今ごろはなにかですごく成功して印税とかで遊び暮らしているはずだったのにいつまで経ってもなにも起きないし印税も入らないから一念発起してネット発信に精を出す今日このごろです。なんという身の丈生活。

その一方で、学者でもないのに身の丈もわきまえず社会時評めいたテーマで書き始めたら深みにはまってボロボロになりました。身の丈だいじ。れっつ身の丈。

さて、冒頭から連発し過ぎて身の丈がゲシュタルト崩壊を起こしかけているわけですが、あの萩生田さんという人の発言を受けていろいろ考えていたら、以前から気になっていた言葉を思い出しました。それが「学歴ロンダリング」です。

学歴を洗う

この記事を選んで読んでくださっている方にはわざわざ説明の必要もないかと思いますが、「学歴ロンダリング」とは出身大学よりもレベルが高いとされる大学の大学院に進学することを意味するネットスラングで、「マネーロンダリング」という外来語をもじった造語です。

「マネーロンダリング(資金洗浄)」とは、違法な経緯で入手した資金を、架空または他人名義の金融機関口座などを利用して、転々と送金を繰り返したり、株や債券の購入や大口寄付などを行ったりして「洗浄」し、出所がわからないようにする行為。

ですから「学歴ロンダリング」という言葉も「(学部時代の汚い)学歴を(名門大学院に進学することで)洗浄する」という意味合いで、たとえば以下のように侮蔑的なニュアンスで用いられることが多いようです;

「Aさんて名門国立大学院出てるらしいよ!」「え、でも学部は中堅私立でしょ」「なんだ、ロンダじゃん」

あるいはまた、直接「学歴ロンダリング」という言葉は使わないまでも

「名門国立大の院生なんですよね? すごいですね!」「いや、でも自分、学部は三流私立なんですよ(苦笑)」

と、学部は他大だったことを「自白」するパターンもみられます。まるでいま名門大学の院生である自分は世を偲ぶ仮の姿で、出身大学の偏差値こそが本当の自分の価値を表す記号である、とでもいわんばかりです。こういう自虐的な発言をせずにはいられないのも「学歴ロンダリング」的価値観を内面化している証拠でしょう。

キャリアアップとロンダリング

でも、大学院に進むということは、学部での勉強を終えてなお学問を続ける選択をするということです。そういう人がより良い環境を求めて所属を変えることが、なぜ経歴詐称かなにかのように言われたり、やましさを覚える原因になったりするのでしょうか。

だって、いったんどこかの組織に就職した人が、よりやりがいのある業務内容や充実した給与体系を求めて転職を繰り返す行為は「キャリアアップ」と呼ばれて肯定的に受けとめられますよね。「おまえはそこにしか拾ってもらえなかったんだから、いったん勤めたら文句を言わずに骨を埋めろ」なんて人、終身雇用が当たり前の時代ならいざ知らず、いまはあんまりいない気がします。

大学院選びにだってこれと同じような側面が大いにあります。あそこの学校には教えを乞いたい教員がいるとか、専攻分野の蔵書が充実しているとか、最先端の実験施設があるとか。まして大学院は一般的な学問よりも高次の「研究」に取り組む場ですから、優れた研究を行うために充実した環境を選ぶのはとても大切です。

それなのに、転職活動なら「意識高い系」として評価されるものが、学歴となると「出自をごまかして成り上がる」みたいな見方をする人が出てくるのは、いったいなぜなのでしょう

学歴ロンダリングは簡単か

この疑問を解決すべく「学歴ロンダリング」という言葉で改めて検索してみると、どうやら「大学院入試は学部入試よりずっと簡単」「特に人文系はちょっと対策すれば楽勝」という物言いがまかり通っているらしいことがわかりました。

つまり名門大学院へ入るのは(減収や失業のリスクの伴う上昇志向の転職活動とは違って)簡単で、なのに学歴に箔がついて、「なんかズルい」という感情が「学歴ロンダリング」という侮蔑表現を産んだようです。「学部入試で失敗した(=汚点をつけた)くせに、後から院試で楽して入学して名門出身みたいな顔をするのはロンダリング(=洗浄)行為だ!」というわけですね。なるほどなあ。

でも、大学院の入試って本当に学部入試より簡単なのでしょうか。

答えは「比べられない」だと思います。それぞれの試験で求められるものがあまりにも違うからです。

大学入試はあくまでも高校三年時までの学習内容の習熟度を測る試験。いわゆる「学力テスト」ですから合否は単純な正答の数で決まりますし、どこのどんな学部や学科を志望しようと、動機やその必然性、中長期的展望を問われることは(AO入試のような一部の特殊な形態を除けば)ありません。いわば、限られた時間で問題を理解し解答を導き出す技術や要領に特化した高度な情報処理作業です。

一方、大学院入試では学部の4年間(もっと長い専攻や学科もありますが)で培った専門的な知識をもとに、より高度な学識へと結実させていけるかどうかが問われます。専門科目の筆記試験はもちろん、ふつうは外国語の試験もありますから、その対策もしなくてはなりません。

そしてなんといっても重要なのが論文審査です。学部時代の集大成として書き上げた卒業論文が一定以上の質に達していると認められなければ、学科試験の点数がどんなに高くても合格することはできません。

また、論文と並んで重視されるのが研究計画。卒業論文で設定したテーマとそこから導き出した仮説を今後、どのように展開させて修士課程での研究につなげるのか。研究計画書や口頭試問を通じて計画の意義と実現可能性が評価されなければ、やはり合格は難しいでしょう。

このように、学部入試と大学院入試は根本的な性質を異にしています。ですからこの2つを比べてどちらが難しいとかどちらが偉いとかいってもまったく意味がないですし、そういう意味のない比較に基づいて「学歴ロンダリング」などという侮蔑表現を用いるのは、意味がないどころか、他者の生きかたを貶める悪質な行為だと思います。

「善い敗者は死んだ敗者だけだ」

しかしですね、「学歴ロンダリング」という言葉の不当さを証明するために学部入試と院試の違いをこんなに丁寧に述べてみても、それこそ意味がないということを、ここまで書いてから思い出してしまいました。なんてこった……。

なぜかというと、学歴ロンダリングという言葉で他者を侮辱する人たちは、実は「院試の方が学部入試よりも簡単だから」と(思い込んで)腹を立てているわけではないっぽいからです。

そういう人たちは「学部入試で名門に入れなかった人間が院試で挽回する」こと、もっとありていにいえば「いちど負けたやつがまた挑戦する」という選択自体が許せないのです。この違い、わかっていただけるでしょうか。

そう、日本は「一度負けたらずっと負けていなくてはいけない」社会だから。

SEALDsとロンダ炎上

私がそのことをはっきりと意識するきっかけとなったのは、数年前にある有名人の学歴を巡って起きた炎上事件でした。当時、新時代の学生運動で世の中を席巻していたSEALDsの元メンバーのA氏の学歴を「中堅私立から名門国立の院にロンダリングした」と揶揄する声がTwitterを中心にネット上で拡散されたのです。

驚いたのは、誹謗中傷がやがてA氏の出身高校名にまで及んだことでした。いわく、「A氏の高校の偏差値は極めて低い」「こんな偏差値の人間が政治を語るなんて笑わせるな」。極め付けは「偏差値が○○しかない高校を出た人間が名門国立大学院に入れるはずがない」「あの学校も落ちぶれたものだ」「さもなければコネがあるに違いない」というものまで。

ここに至って、私は完全に頭を抱えてしまいました。すでに書いたように、大学院の入試は学部時代の学業の総決算ともいうべきものです。つまり「大学に入ってからなにをしたか」が問われる試験であって、学部入試時の学力は無関係です。まして出身高校の偏差値なんてほとんど前世みたいなものです。

にもかかわらずそこまで遡って誹謗中傷を行うということは、その人たちはもはや「簡単な入試で楽して大学院に入ったらしい」ことを揶揄しているのではなく「学部受験時に負けたやつが逆転勝ちしやがった」ことそれ自体が許せないのだろう、と考えるざるをえません。

「偏差値の低さは頭の悪さ」

「学部入試に成功した人だけが本物の勝者」

「大学受験の負けは一生の負け」

受験期はちょうど思春期であり、15歳であれ18歳であれ人格形成期のまっただなか。物の見方や考え方の基礎を固める大切な時期にこうした歪んだ価値観を刷り込まれ、内面化し、呪いを背負ったまま生きている人たちの怨念が、ふとしたきっかけを得て噴き上がってしまうのでしょうか。

院試の意義や難しさをどれだけ説明したところで、そういう人たちの耳には決して届きはしないでしょう。

タイムリミットは18年

人生100年時代ともいわれる昨今にあってなお、大学受験という本来は通過点に過ぎないはずのイベントでの勝ち負けに苦しめられ続けて生きる。これを「学歴コンプレックス」と一笑に付したり、哀れんだり、切り捨てたりするのは簡単です。

でも、思えば日本の社会には、勉強に限らず何事につけても規定路線を設け、かつ厳しいデッドラインを課す風潮があります。就職も、結婚も、出産も、転職も、いちいちすべてに「○歳ごろまでには」というラインがあり、その時期を逃すとやり直しや方向転換がとても難しい。「まだ子どもつくらないの?」「いまさら結婚?」「その歳で留学?」と、本来ならば生きている限り自由であって然るべき人生の選択になぜか社会の空気がリミットをかけてしまう

「勉強で勝つリミットは大学入試まで」「そこで負けたら一生負け」

本来であれば人生の入り口に立ったばかりの18歳がそんな意識を植えつけられてしまうのも、この国にいれば無理もないのかもしれません。

負けを抱きしめて眠る俺を起こすな

でも、たとえ少なからぬ日本人がそうした社会の圧や敗北感に苦しみ続けているのだとしても、そんななかで挑戦する他人を「学歴ロンダリング」などという言葉までひねり出して中傷したがるのはなぜでしょうか

むしろ逆に、いちど失敗したらやり直しのきかない日本の風潮に変化をもたらす存在、異なったアプローチで社会を流動化させてくれる起爆材として、憧れたり、応援したりする対象になってもいいはずです。

実際、そういう人も決して皆無ではないと思います。大学で学問に目覚めて「ロンダリング」に挑む学生は後を絶ちませんし、先ほど例に挙げたSEALDsのA氏に憧れて一念発起する若い人もいるでしょうし、その人の背中をみてさらにまた違う誰かが立ち上がるはずです。人間って、たぶんそう捨てたものではないですから。

ただ、そうやって挑戦する人たちの姿を「学歴ロンダリング」と揶揄し、冷笑し、後ろ指を指す人たちが少なからず存在するのは、たぶん、「挑戦する人」が現れることで「挑戦しない人」になってしまうのが怖いからだと思います。

負けに苦しむのは辛いけど、この国では同じ傷を背負って「負けたまま」生きている人たちがたくさんいるから、そういうものだと思って諦めていれば耐えられる。それなのに、いちど「負けた」仲間の中から挑戦する人が現れて、しかも成功してしまったりしたら、自分は安心して諦めていられなくなるじゃないか。せっかく観念して生きているのに、どうして「挑戦」なんて「身の丈」に合わないことをするんだ。認めない、認めないぞ……。

みんな我慢しているんだから、おまえもがまんしろ。

「学歴ロンダリング」という言葉は、日本社会の圧に潰されそうになりながら必死に神経を鈍麻させてサバイブしている「善良な」人たちの、精一杯の悲鳴なのかもしれません。

れっつ!ロンダリング

最後に、ともったいつけて言うほどのことでもありませんが、私は底辺の夜間大学から名門国立大学の大学院に進学した、ぴっかぴかの「ロンダ組」です。

けれど、まいにち無我夢中で予習と復習と自習に明け暮れ、徹夜で準備して試験を受け、恩師に見守られながら死に物狂いで論文を書いて過ごした学部時代の日々は、その後の人生に多くの出会いと飛躍をもたらし、豊かにしてくれたかけがえのない財産です。きらめきを放つことこそあれ、「浄化」するべき汚れなど、どこにもありはしません。だから、日本中の「ロンダリング仲間」にもぜひ、努力した自分の過去を大いに誇ってほしいと心から思います。

そして願わくは、私自身をはじめ誰の心にもひそんでいる「他人と比べて自分の幸せを測る」という呪いから日本人がすこしずつ自由になりますように。生かされている時間を他人を罵ったり貶めたりすることに費やさず、狭い世界での勝ち負け意識から降りて、誰にはばかることなく自分なりの選択を重ねて人生をまっとうできますように

私たちはみんな等しく宇宙の塵なのですから。

たいへんです。もうすぐ5,000字です。しかも3時です。こんなに長くて普通の話にここまで付き合ってくださった根性のあるアナタなら、きっとページを閉じる前に「スキ」を押してくださることを信じつつ、本稿を終えようと思います。

あ、誰も「スキ」してくれなかったら自分で押して「ロンダリング」しますね☆

平野暁人

追伸 次こそは、次こそは短くて軽やかなテクストを書いてみせます……!

訪問ありがとうございます!久しぶりのラジオで調子が狂ったのか、最初に未完成版をupしてしまい、後から完成版と差し替えました。最初のバージョンに「スキ」してくださった方々、本当にすみません。エピローグ以外違わないけど、よかったら最後だけでもまた聴いてね^^(2021.08.29)