「善悪」の身代わりとしての「快不快」

自己紹介:言葉に宿る(無)意識を読み解く仕事

はじめまして。翻訳家の平野暁人と申します。

主にフランス語とイタリア語の翻訳・通訳を営んでおりまして、専門は舞台芸術です。演劇とかダンスとかインスタレーションとか、いわゆるアートなやつですね。他に出版翻訳もぼちぼち。あ、韓国語は中級になりました。わーい。

翻訳通訳の仕事というのは(もちろん訳者の数だけ哲学があるとは思いますが)、機械翻訳とは違い、人々が何気なく言ったり書いたりする言葉に宿る「(無)意識」まで汲み取り、必要に応じて補ったり沈黙したりしながら、対話者や読者といった第三者に届ける仕事です。

ですから、日頃からちょっとした言葉遣いや表現にどんな(無)意識が潜んでいるのかをつらつらと考えてみるのが好きな生き物ですし、高度な言語機能こそが人間と他の生き物をわける特徴だとすれば、自分と違う誰かを理解するためにはその人の言語運用を理解するのがもっとも効果的な方法なのではないか、なんて思ったりしています。

「不快な思いをさせて申し訳ない」は謝罪か否か

さて、私のようにメインストリームとはほど遠いところで地味に変わった暮らしを続けて来た人間がいまさらこのように小洒落たメディアで発信してみようと思ったのは、以下のTwitterへの投稿がきっかけでした。

このツイートは、ご覧の通りさえぼうこと批評家の北村紗衣さんがTwitter上でなさっていた議論に乗っかる形で投稿したものです。「不快な思いをさせたから」という謝り方の是非と問題点について私見をまとめたものですが、元々のツイート主である北村さんの知名度を差し引いても、私のような零細アカウントにとっては思いのほか大きな反響がありました。

このツイートのテーマである「快不快と善悪の混同」については、私自身かなり以前から気になっていたことです。それが、今回の反響をきっかけに、改めてこの傾向について、いち翻訳家なりに考えてみようと思うに至ったのでした。

なぜ「不快な思い」を問題にしてはいけないのか

さて、「不快な思いをさせてしまい申し訳ない」という発言は謝罪になっていない、それどころか開き直りに近いのではないかという批判は、日本(のネット空間?)においてはしばらく前からなされています。その理由は、私自身ツイートにも書いた通り、「快不快という感覚は個人の主観に則して生じるものである」からに他ならないと思うのですが、この点について、もうすこし丁寧に考えてみます。

まず、「個人の主観」という部分についてです。主観とはかんたんにいえば、ある人が様々な教育や体験を通じて培ってきた物事の考え方や感じ方の集積を指します。個人の経験に基づいているのですから、完全に同一の主観を有する人間はおそらくふたりといないはずです。

そして「快不快」という感覚はおそらくほとんどの場合、この個人の主観に基づいて発生していると考えられます。個人の主観から生じている以上、「快不快」は「正しいか間違っているか」のジャッジが極めて難しいものです。あるいは、本来的に不可能と言い切ってしまってよいかもしれません。

ありふれた快感というテロリズム

たとえば、よく晴れた日曜日に公園でピクニックをしている親子連れがいたとします。おいしそうにお弁当を食べる子どもを温かな目で見守る両親。一見すると模範的な「幸せ≒快」の構図に思えます。

けれどそこに、恋人を得て家庭をもつことを夢見ながら全く良縁に恵まれず、日々鬱々として過ごしている人が通りかかったとします。その人にとって、はたしてこの家族の団欒を目の当たりにすることは快でしょうか。

あるいはまた、事故や病気で子どもをなくした人や、両親に虐待を受け続けて育った人はどうでしょう。自らの辛い思い出がフラッシュバックして呼吸さえ困難になってしまうかもしれません。

このように、最大公約数が抱くイメージに照らして「快」に思えるようなことであっても、たまたまそれを目にした誰かにとって深刻な「不快」として作用する場合は決して珍しくありません

もちろん逆のケースも多いにあり得ます。たとえばサッカーのW杯で日本代表が敗退したというニュースを聞けば、それほど熱心なファンでなくともなんとなくがっかりする人は少なくないのではないでしょうか。でも、私はとても嬉しくなります。それはもう完全なる「快」です。中学生の時、サッカー部に所属していた人たちからひどい嫌がらせを受け続けた記憶がいまだに生々しく残っているからです。

「快不快」≠「善悪」

ともあれ、ここで大事なことは、快不快が個人の主観に即した感覚である以上、Aさんの言動にBさんが快あるいは不快を覚えたからといって、Aさんの言動自体が本質的に善あるいは悪であることは意味しない、ということです。

もちろん、自分と同じく社会の成員である他者を思いやり、配慮しながら生活するのは人として大切な美徳ですが、自分の言動や状況を自分以外の人間がどのように受け取るかについて事前に完全な想定を行うのは不可能でしょう。

つまり、「快不快の配慮は完全に行き届かないのが当たり前=誰かの発信で他の誰かが快不快を覚えることは完全には避けられず、責められない」のです。

そして、おそらくここに、問題を起こした(として責められている)人達が「不快な思いをさせて申し訳ない」というフレーズを好んで使う最大の理由があるのではないかと思います。

「善悪」の身代わりとしての「快不快」

さあ、「快不快と主観」の関係について、基本的なことを整理できたところで、本稿のテーマである「不快な思いをさせて申し訳ない」に戻ってきました。

このフレーズは、主に企業や政治家、有名人といった影響力のある人達がなにかのきっかけで「炎上」し、謝罪を迫られた際の常套句として近年、さかんに聞かれるようになったわけですが、すでに見てきた通り快不快とは個人の感覚であり、そもそも「正しいか間違っているか」のジャッジがほぼ不可能なもの。

ですから、特に企業や政治家のように公共性のある主体が(その点、芸能人のようにそもそも他者の快不快を売り買いする仕事の人は、ちょっと違うかもしれません)、「不快な思いをさせた」という、主として個人的な感覚や私的な受け取り方にまつわる部分だけを前面に出して謝罪するというのは、かなり無理があります

本来なら「自分(達)の言動の何が悪かったのか」「社会の倫理的な規範に照らしてどう間違っていたのか」を整理し、認識を改めたことを示すことが謝罪のはず。それなのに、「不快な思い」のみを根拠にするということは、

1. 快不快それ自体の善悪をジャッジするのはほぼ不可能である

2. 誰かの発信で誰かが快不快を覚えることは完全には避けられず、責められない

という性質を逆手にとって、「快不快」と「善悪」とをおそらく意図的に混同し、謝罪するふりをするのに利用していると考えざるを得ないでしょう。

つまり、「(そもそも人それぞれ違っていて想定不可能な)不快な思いを(想定不可能だからわざとじゃないけど)させてしまい、申し訳ない(けど想定不可能だから自分(達)は悪くないです)」というのが、このフレーズを好んで用いる人達に共通した、責任回避と体裁確保の心理メカニズムだということになります。

まとめと新たな疑問

というわけでここまで、善悪の身代わりに利用される「快不快」と、その帰結としての「不快な思いをさせて申し訳ない」という定型フレーズを考えてきました。長々と当たり前のことばかり書き連ねて恐縮ですが、快不快のみを語ることで問題を感覚の齟齬に矮小化する、実に空疎な表現であることがお分かりいいただけたかと思います。

さて、本稿はこれでおしまいですが、実はここへきてひとつ、新たに気になることが出てきてしまいました。

それは、そもそも現代の社会において、「快不快」がこんなに取りざたされるようになったのはなぜなのか、ということです。これについては、もしも読みたいと言ってくださる方があったら書いてみようと考えています。

でも、テーマが壮大すぎて、いち翻訳家の手には終えないような気もします。私にできることがあるとすればそれはあくまでも言語の専門家として「ことばに宿る(無)意識を読み解く」なので、分をわきまえ、日々の言語現象を分析してゆきたいと思っています。縁がありましたら、今後もよろしくお願いいたします。

訪問ありがとうございます!久しぶりのラジオで調子が狂ったのか、最初に未完成版をupしてしまい、後から完成版と差し替えました。最初のバージョンに「スキ」してくださった方々、本当にすみません。エピローグ以外違わないけど、よかったら最後だけでもまた聴いてね^^(2021.08.29)