見出し画像

プロフィール

20年におよぶ長い闘いの末、漸くすがすがしく、安らかな気持ちでいます。
平坦な道ではありませんでしたが、インターネットを活用し個人の力で、会社員の月給並みに稼げるようになりました。

思うに、個人で「稼げる」「稼げない」は、ほんのわずかな差しかありません。

誰だって、「覚悟」と「正しい方法」さえあれば、他の人は喜んでお金を払ってくださいます。

「副業」の時代

時代の流れは会社員にも、個人で稼ぐ力が求められていることは間違いありません。

30年以上、雇われ人として働き、20年以上インターネットでの収益化に取り組み、個人で稼げるようになったのは、最近です。

その間、「挫折」は何度もしましたが「頓挫」はしなかったから、今があります。

チャンスを逃すな

思い返せばチャンスは何回もあり、もっと早く成功出来ていたと思います。

できることなら、私とご縁のあった方には、時間とお金を無駄にして欲しくない、とnoteを始めました。

自分では、「平凡」と思っている私のプロフィールですが、「お金を個人で稼ぎたい」と思っている人の参考になれれば、と思います。

こんな人物でも、ここまで来れたのか、と。

また、もっと早く望む結果を手するヒントになれば、幸いです。

60年近い人生ゆえ、少々長くなるかもしれませんが、お付き合い頂ければ幸いです。

生まれるちょっと前

太平洋戦争に敗けて20年も経たないのに、日本は高度成長期に入った頃。物を作れば、売れる」という恵まれた時代でした。

この頃、「三種の神器」と言われたのが「冷蔵庫・洗濯機・テレビ」。
もちろん、テレビは白黒でしたが。

画像1

市内で、はじめての電気小売店を開業したのが自慢の父。

時代の波に乗り商売は順調で、多い時には、10人を越える従業員を雇う「社長」でした。

支える母、2歳年上の姉、後に2人の妹が生まれ、4人兄妹の長男として生まれました。

誕生

後継ぎ息子としての期待を背負い、4月の穏やかな春の日、この世に生を受けました。

難産~誕生

当時は、病院での出産は珍しく「産婆さん」の手により生まれるのが普通でした。

医療技術もなく、生まれてその日に死ぬ子供も多くあったと聞きます。

今でも、比較的貧しい国の平均寿命が短いのは、高齢者の寿命が短いことよりも、「生まれて間もない子供が、死ぬ確率が高いから」に起因します。

「死」と紙一重の生

へその緒を首に巻き付け、呼吸ができない状態。仮死状態で取り上げられました。「仮死状態」とは死ぬ寸前ですね。

胎内から出ても肺呼吸できず、酸素の供給が脳にされなければ、死にます。運よく生き延びても、脳に障害が残ることも。

昔の産婆さんは、こんな時の対処法を熟知していました。

蘇生~産声

メスも注射も使いません。素手です。

左手で、両足首をまとめて掴み逆さに吊り上げ、右手で、尻を強打します。何回も、何回も。

そうしてやっと、この世の第一声。産声を上げたのでした。

画像2

幼少時代から小学生まで

とても内気な性格で、幼少期から小学校まで、「どこに居るか分からない子供」と言われました。

家族の中では伸び伸びできたものの、一たび家を出ると、そこが親戚の家であっても、途端に無口に大人しくなりました。

自分の気持ちを口にすることができず、学校では一言も発しないこともありました。

「言葉では、自分の気持ちは伝えられない」と思ったのです。

母の苦労

母はとても明るい人で、父の商売を事務の面で支える傍ら、4人の子供を育て上げました。何でも、私の代わりにやってくれる人でした。

一方、父は若いころから「やんちゃ」な人で、祖母を困らせていました。

商売を始めても、家電の配達・設置・修理などで訪問先の婦人に手を出したり、また、商売の資金繰りに困ると、母の親類に借金をさせるなどしていたようです・・・

中学・高校

親の苦労も4人の子供には平穏に見え、何不自由なく生活できました。

中学に進み、担任の先生が音楽に熱心で、部活動「音楽部」を発足のため、音楽の授業を通じて部員をスカウトしていました。

「声がきれいだから」と私も入部を勧められ、取り立てて拒否する理由もなく、音楽部に入って合唱に打ち込むようになりました。

6年間、合唱ひとすじ

成り行きで入った音楽部でしたが、中学から高校の6年間、仲間に恵まれ継続しました。

画像3

合唱では皆と声を合わせ、お腹から声を出しハーモニーを奏でる、1人では味わえない快感でした。

音楽コンクールでの頂点

高校1年生の時、NHK主催の合唱コンクールでは、県内トップの金賞を受賞し中部大会に進みました。

一度、頂点を極めたら、次も頂点を目指し練習しますが、相手があることなのでトップに立てるのは1校だけです。

翌年以降は、2位に甘んじることになりました。2位でも十分上位なのに、物足りなくなってしまうのです。

群衆の中の孤独

また、皆と声を合わせようとすればするほど、微妙なズレが気になります。

完璧な歌唱はできないし、声を合わせられたとしても、心までは一つになれない自分がありました。

大勢で歌っていても、心はいつも一人で、本心は誰にも分かってもらえない。

「群衆の中の孤独」から抜け出せないのでした。

進学を考える

独りでいるのが好きで本をよく読み、勉強はできました。

高校は地元でも有数の進学校に入りましたが、部活動以外はでの友達は、ほとんどいませんでした。

良くも悪くも、音楽部での合唱が中心の学生生活でした。

パソコンの黎明期

丁度、コンピューターが少しずつ身近になり始めたころで、高校3年ぐらいには、NECがPC-8000シリーズを、富士通がFM-8シリーズを発表し、Appleのマッキントッシュも生まれました。

画像4

「パーソナル・コンピューター」、いわゆる「パソコン」という言葉が生まれ、「ビジネス・コンピューター」「オフィス・コンピューター」の時代から、コンピューターを個人が使う時代に変わろうとしていました。

SF映画ブーム~科学か、文学か

映画「スター・ウォーズ」第一作が公開されたのもそのころで、SFが全盛でした。

ルーク・スカイウォーカー、とオーガナ姫、チューバッカとハン・ソロ船長。

画像5

大当たりした映画は、実は日本映画を参考に作られた、というのは完全に余談です。

SFに限らず、推理小説もたくさん読みました。

・小松左京
・星新一
・眉村卓
・筒井康隆
・江戸川乱歩
・横溝正史
・松本清張
・森村誠一

大学進学にあたり、文学かコンピューターか、いずれの道に進むか迷いました。

大学~ITエンジニアの道へ

結局「人づきあいが苦手」という理由で、理系を選択し、国立工科系大学に進学しました。

グループで実習するとか、ノートを借りるとか、そんなことが苦手で要領が悪く、勉強では挫折を味わいました。

1回留年し、2年生を2回やりました。

こころの弱さ

この頃から、時折り、心臓を締め付けられるような痛みがあり、大学の検診所で見てもらったところ、「心臓神経症」と診断されました。

他人の顔色や、自分がどう思われているか、必要以上に気にする性格だったのです。

卒業~就職へ

5年かけて卒業を迎え、就職先を選ぶことに。

研究職・半導体やハードウェアの開発など、コンピュータの仕事の選択肢は種々ありました。

「コンピューター相手なら、あまり人と接しなくて良いだろう」と安易に考え、結局、システムエンジニアになりました。

会社員~インターネットの夢

東証1部上場企業の、IT部門が独立した子会社に就職しました。

この後、私は父の電気小売店を継ぐことを放棄したため、電気店は廃業。奇しくも、父は大きな借金を抱え、70過ぎまで働いたのち、借金を完済しました。

私はシステムエンジニアの中でも、業務システムを開発する職に就いたのです。

転職~高収入

5回の転職を繰り返しました。年収800万円に達したこともあります。

※この時、住宅ローンを組んでマイホームを購入しました。

技術の進歩は目覚ましく、特にインターネットを使えば、世界中の誰とでも瞬時につながれる未来に夢を描きました。

アメリカ国防省の軍事技術が元で生まれたインターネットは、一部が破壊されても全体は機能します。

画像6

ネットワークは、完全に破壊できないのです。

結婚~体力と気力

若いうちは、体力で仕事を乗り切り、30代後半には結婚し、3人の子供にも恵まれました。

その間、技術の進歩は目覚ましく、特にインターネットの運用により、世界中の誰とでも瞬時につながれる未来に夢を描きました。

やがて、技術の進歩に頭脳と体力がついて行かなくなり、さりとて人付き合いも下手でした。

上司や部下をうまく使って乗り切ることもできず、板挟みで苦しむようになってゆきました。

うつ病の発症

30代後半に結婚し、3人の子供にも恵まれたのですが、徹夜しても大丈夫だった体力も続かなくなり、40代の最後の年にうつ病になってしまったのです。

うつになった理由

納期と品質確保のプレッシャーに耐えられず、押し付けられた仕事を断れず、無理を重ねた末に出社が不能になりました。

「うつ病にでもならないと、仕事が無理だと訴えられない」状態です。

うつ病により、2度の休職を繰り返し、1年半の働くことが出来ず、貯金は底をつきました。

ネット副業~地獄の入り口

インターネットでの副業は、「うつ病による収入減をなんとかしたい」とのキッカケで始めました。

画像7

それまでも、ヤフーオークションで不用品を出品して、小銭を手にする方法は体験しており、貯金が無くなっても、銀行からの借金で何とかしのいでいましたが、続くはずはありません。

情報商材・高額塾

収入を増やしたい気持ちが強くなり、当時ヤフオクにあった「情報カテゴリー」で「稼げる情報」を初めて買いました。

その後、いくつも情報商材に取り組んだり、半年36万円の高額塾に入ったり、ありとあらゆる稼ぎ方に取り組みました。

パソコン作業

せどりはもちろん、競馬投資やブックメーカー、アフィリエイトは、サイト・ブログ・アダルト、メルマガ、SNS、Youtube・・・、Amazon書籍出版。

インターネット登場初期は、ブログは稼ぎやすく、短期でもポツポツ成果が上がりました。

しかし、明確な指針がなかったため継続的には稼げず、色んな方法に次々に手を出し、18年が過ぎ、200万円以上を費やしました。

投資~余裕がないと勝てない

「投資なら、特別な技術が無くても、お金がお金を稼いでくれる」

その通りでしょうが、あくまでも、お金に余裕がある人の話です。

お金に余裕がなく、焦っている人は、勝てる投資手法を使っても稼げません。

待つべき時に待てず、損切すべき時にできず、損失を重ねました。

FXで145万円を溶かす・・・

「自分で判断するから間違うのだ」と思い、完全自動のFX自動売買に乗り換えました。

「10年間負けなし」というEAを25万円で買い、1カ月試して利益が上がることを確かめました。

そこで、120万円を投資金として運用を開始しました。

計算では・・・

計算上、これさえ上手くいけば、毎月20万円は利益が出続けるはずでした・・・

ところが、トランプ大統領の発言「トランプ砲」により、為替は急激な値動きをしました。

投資金を増額した矢先であり、利益を一切得ることなく、一晩にして120万円が消えてしまいました。

稼ぐどころか、全ての投資金を失ってしまいました。

サポートに電話して、指示を仰ぎました。

一言「ここで損切した方が良い」と言ってくれれば良かったのに、自信なさそうに言葉を濁すばかりでした。

ウソばっかり

何で自分ばかりが、こんな目に合わなければならないのか? 稼げる情報なんて、皆嘘っぱちじゃないか!

外に声が漏れないサーバールームの中、照明を落とし、ひとり叫びました。

余りのショックで、2日間会社に出勤できず・・・

生きる最後の望み

稼ぐどころかマイナスは増え、借金は増えるばかり。

このままでは、愛する家族も家も守ることができない・・・

稼げる情報に不審は募るものの、放棄はできない。

なぜなら、現実に稼いでいる人はいるのだし、同じ人間で出来ないわけがない。

何より、家族を守りたい。まだ方法をあるはず。出せる力は残っている。

倒れるなら全力を尽くしてからでないと、家族や今までお世話になった皆さんに申しわけない。

特化ブログに全力を注ぐ

最後の望みを託したのが、特化ブログのコンサルでした。

「シンプルだけど、難しい。ただ、強い覚悟を決めて続ければ必ず稼げます」

そんな言葉に惹かれ、続けてメルマガを読んでいたところ、コンサル募集が人数限定であることを知りました。

決して派手ではないし、表舞台にバリバリ出ている人ではありません。

むしろ、庶民的で家族思いな人で、自分が面倒見れる人数だけに絞って指導します。

そのため、直接会話して審査を通過した人だけが参加でき、参加者を思って最良の方法でコンサルしてくれます。

覚悟を決める

10年に渡って、2000人以上の人を見てきた人です。

「これが最後。これがダメなら、潔く自己破産しよう」

そんな思いで覚悟を決め、他の情報を一切遮断し、特化ブログの構築・執筆に全力を掛けました。

それまでと何が違ったか?

それまでの取り組みと違ったのは、完全にマンツーマンであったこと・覚悟を決めて臨んだこと。

覚悟の違い

私の「特化ブログのコンサルへ臨んだ覚悟」は、既にお分かり頂けると思います。

引くに引かれぬ状況で、最後の望みでありましたので、その他の一切の「稼げる系」の情報は遮断しました。

一つに集中し、時間も神経も集中しました。

フラフラすることなく、余計なお金も使わなくなったので、心配していた資金繰りも、余裕はないまでも何とかなりました。

完全マンツーマン

稼げる系の塾では、個別のスレッドを用意したりして、講師とのやり取りが1対1で可能なことをウリにしている場合もあります。

文章のサポートの限界

大抵は文字のやりとりです。文字だけで疑問を解決するのって、難しいです。

疑問を文章にするのも難しいですし、返って来た回答分を読み解くのも難しいです。

前提や聞きたいことを理解するため、文章のやり取りが必要になり、それに数日かかることもあります。

そのうち、嫌になって止めてしまう・・・

音声・画像共有サポートなら

その人の進行具合や理解度に応じて、音声なり画面共有でやりとりして、疑問は晴れるものです。

私が受けた特化ブログのコンサルは、主にZOOMによるサポートでした。

音声通話で、また画面を共有して見せてもらいながら説明してくれるので、晴れない疑問はありません。

スッキリして、次にすべき作業に打ち込めます。

対応日・時間・回数

連休中はサポート側も休みだったり、スカイプなどの音声サポートも受付時間や回数が決まっていたりします。

先方と自分の日時をすり合わせて、可能なら連休中でも、聞きたい時にいつでも、何回でも聞けるサポート。

これこそが本当のサポートだと思いました。

コンサル後も稼げる実力

コンサル後も稼げる実力が着いてきました。

10カ月のコンサルが終わるころには、本業にも良い変化が出てきました。

答えは自分で見つける

外注化アドセンスにも取り組み、100記事以上投稿しても、収益はマイナス。記事書きも苦痛でした。

そんな自分が、特化ブログでは自分で記事を書くように指導されました。

ブログジャンルやASP案件にしても、方向性や修正点を示してはもらえますが、リサーチして実行するのは自分です。

「答えを教えてもらえたら、もっと早いのに」と思いましたが、それでは実力は着きません。

知らぬ間に実力が

自分で記事を書けば書くほど、スラスラ文字にできるようになり、気が付けば、本業のメール文書も苦手ではなくなり、頭の回転も早くなりました。

副業に割く時間を増やすため、本業を早く終わらせようと必死になりました。

あんなに苦手だった人づきあいも、「人に聞いたり、頼んで早く終わるなら人に頼ろう」と人間関係もうまく使えるようになってきたのです。

1年足らず、一つに打ち込んで実力が着いていたのです。

まとめ~好循環

稼げるから自信になり、迷わない。

稼げるようになって

振り返ると、20年稼げなかったどころか借金を抱えた自分が、今では本業を持ちながらも個人で稼ぐ実力者となっていました。

「アフィリエイトで5000円以上稼ぎ続けられるのは、5%に過ぎない」と言われ、今、その身になって思うことは、「正しい手法」と「継続」が出来れば、毎月20万円の利益を得るのは難しくないということです。

稼げる情報に迷うのは
「この方法であれば、初月から30万円」とか「半年後には、ノーリスクで資産50倍」のような怪しい情報があふれています。

稼げていないと、「インターネットを探せば、稼げる秘密の情報があるのでは?」とフラフラしてしまいます。

「情報」より「教える人」

無料でも、探せば稼げる情報はあるかもしれませんが、あまりに情報は多く、探す時間が無駄です。

10年におよび業界に身を置き、インターネットで稼ぐ方法を教えて来た人なら、今だけでなく、これからも稼ぎ続ける方法を、その人に合わせて教えることができます。

そんな人に教えてもらうのが、一番の近道です。(当然ながら、誠実でウソをつかない人です)

稼げるようになる唯一のポイント

稼ぐための唯一のポイントは「教えてくれる人の存在」です。これだけあれば「正しい手法」も「継続」も付いてきます。

その方は、2019年を最後に表舞台から姿を消し、後進の指導に当たっています。幸運にも、直接の指導を受ける最後のチャンスでした。

最後の最後に、本当に稼ぎの師匠に会うことが出来た! この喜びをもって、今自分と同じように、もがき苦しむ人を支え、力になりたいと心から思います。

ご恩返しをしたい

出来れば、もっと早く、この師匠に遇えれば、これほど苦しむことは無かったでしょう。

しかし、苦しみが多くければ多いほど、喜びも深いものです。

誰かのために役立つように、尽力したいのです。

それがこの世に生を受けた、私の務めだと思わずにおれません。

今では、hideさんと一緒にチームを組んで、特化ブログ以外の収益の柱を構築を始めています。

画像8

1年先には、きっとおもしろ事になっているでしょう。

その過程や気付きをnoteに書いていきたいと思います。

過去の私と同じように、悩み・苦しんでいる人にもお役に立てると思います。

最後に

この文章に辿り着き、最後まで読んでくださったご縁に、心から感謝いたします。

私のコンサルをしてくれて、今チームを率いるhideさんが、結果を出す為に必要な事を解説している音声です。

副業に限らず、毎日の生活にも、きっと役立つ内容です。

良かったら、聞いてみてください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?