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バロック期のイタリアの画家グエルチーノ

グエルチーノとは

グエルチーノ(Guercino)の本名は、ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ(Giovanni Francesco Barbieri, 1591年2月8日 - 1666年12月9日)であり、バロック期のイタリアの画家です。エミリアの出身で、ローマ、ボローニャで活動しました。

本日は、グエルチーノの誕生日です。グエルチーノという言葉は「やぶにらみ」という意味で、彼が斜視だったことからつけられたあだ名です。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、彼の生涯として、次のように記載されています。

グエルチーノは、ボローニャとフェラーラの間に位置するチェントという村で生まれた。17歳になった時には、ボローニャ派の画家ベネデット・ジェンナーリ(en:Benedetto Gennari)と仲間になっていた。1615年にはボローニャに住んでいて、そこでグエルチーノの絵は、年上のルドヴィコ・カラッチの賞賛を得ていた。グエルチーノは2つの巨大な絵をカンヴァスに描いた。『ペリシテ人たちに連行されるサムソン』(1619年)と、『カラスに食事を奪われるエリヤ』(1620年)[1]である。その絵の中には自然主義画家カラヴァッジオ風のスタイルが見られる(もっともグエルチーノがローマにあるカラヴァッジオ自筆の絵を見ることができた可能性は低い)。なお、この2点はフェラーラに来ていた教皇特使セッラ枢機卿のために描かれたものである。
『われアルカディアにもありき』は1618年、ピッティ宮殿にある『アポロに皮をはがれるマルシュアス』と同時期に描かれた[2]。彼自身がよく言っていたことだが、グエルチーノの初期のスタイルはチェントのアンニーバレ・カラッチの影響を受けている。それが後期の作品となると、彼と同時代の巨匠グイド・レーニの作風に接近し、より明るく明瞭な絵を描くようになってゆく。ちなみに、生前グエルチーノは大変高い評価を受けていた。
それからグエルチーノは、エンツォ・ベンティヴォーリョ侯爵によって、ボローニャのルドヴィシオ家出身のローマ教皇グレゴリウス15世の元に推薦された。ローマで過ごした1621年から1623年の間、グエルチーノはたくさんの絵を描いた。カシーノ・デ・ヴィラ・ボンコンパーニ・ルドヴィージのフレスコ画『アウロラ』(1621年)、サン・クリソゴーノ教会の天井画『栄光の聖クリュソゴヌス』(1622年)、『グレゴリウス15世の肖像画』(現在J・ポール・ゲティ美術館にある)、そしてグエルチーノの傑作と言われている、バチカンのために描かれた『聖ペトロニラの埋葬(聖ペトロニラの祭壇画)』(現在カピトリーノ美術館にある)、などなど。
グレゴリウス15世が没すると、グエルチーノはチェントへ帰郷した。1626年にはピアチェンツァ大聖堂にも複数のフレスコ画を描きはじめた。1642年のグイド・レーニの死後、グエルチーノは工房をボローニャに移し、街の主要な画家となった。
レッジョのフランシスコ修道会は、1655年、グエルチーノの祭壇画『聖母子の絵を見せる聖ルカ』に300ダカット金貨を支払った(現在この絵はミズーリ州カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館にある)。コルシーニ家も1657年に『キリストの鞭打ち』の代金として、グエルーノに300ダカット金貨を支払った。
グエルチーノは絵を仕上げるのが異常なくらい早かった。教会のために描いた巨大な祭壇画の数も106点はあり、それ以外の絵の合計もおよそ144点あった。彼はまた優れたデッサンを数多く描いた。彼の作品には多くの素描(普通はインク、薄めたインク、紅殻チョークによる)が含まれている。グエルチーノは1666年に亡くなるまで、絵を描き、教え続け、相当な財を成した。

現在まで残っている作品のうちのいくつかとしては、次のものがあります。

放蕩息子の帰還(1619年)

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『聖ペトロニラの埋葬(聖ペトロニラの祭壇画)』(1623年)

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『バビロンの反乱の知らせを聞くセミラミス女王』(1624年)

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アウロラ(1621年)

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ヴァイオリンを奏でる天使と聖フランチェスコ

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バビロンの反乱の知らせを聞くセミラミス女王(1645年)

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聖母子の絵を見せる聖ルカ(1652年 - 1653年)

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