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僕らの飢餓感【ここじゃないどこかへ】

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(藤原道長)

上の歌は摂関政治で有名な藤原道長が、一家三后を実現したあとに詠んだ歌だ。

意味は、「この世は自分のためにあるようなもので、満月のように何も欠けるものがない」というもの。

きわめて傲慢にも思える歌ではあるが、当時の朝廷内で繰り広げられる陰湿な権力闘争を制した道長だ。こんな歌を詠んでしまうのもわかる気がする。

しかし、実際こんな歌を詠める人はほとんどいない。技術的な理由ではなく、精神的な理由だ。

僕らはいつも何かに飢えている。望月ではない自分を認識し、今の自分ではない理想の自分をどこかで想っている。

そんな飢餓感について。

なぜ飢餓感が生じるのか-イデア論

プラトンのイデア論を思い出す。

僕らが現実に見ているものは完全なものではなく(めっちゃ厳密に見ると完全な三角形は存在しない)、完全なもの(理想)としてイデアがイデア界に存在している、的な話だ。

なんでも僕らはかつて本物のイデアを見たことがあるらしく、現実世界に現れる影を見ながら、イデアを想起(アナムネシス)するのだ。

解釈してみよう。

僕らは現実世界で満月をみることができない。だから理想の世界にある満月を想起する。

理想の自分をこの世でみることができないが、一方で理想の自分を想起してしまう。

これが飢餓感の正体だろうか。

知足安分と飢餓感

「知足安分」という言葉がある。

足るを知り、分に安んずる。
あまり多くのことを望まず、自分の身の程に満足しましょうね、的な意味だ。人間の欲の際限がないことを戒めるものだろう。

「知足」については老子が言っている言葉だ。
老子も自然を大事にしながら、いろいろ弁えて生きていこうぜ、的な人である。

僕はこの言葉が嫌いだ。
本来意図されている意味をとっていないのかもしれないが、しかし現状に満足しろというのが気に食わない。

知足安分は秩序を守ろうとする言葉だ。
天井のない欲が自然を破壊してしまうことを危惧している。

実際、マクロに見れば的を射た言葉だ。人類はもっと知足安分を噛みしめないといけないのかもしれない。

でも一個人として見た場合、これは哀しい言葉だと感じる。

僕は学習や能力開発、体系や物語に興味がある。

学習や能力開発の面から言えば、知足安分などクソくらえ。コンフォートゾーンに良き学習は存在しないのだ。

物語の主人公たちが知足安分を地で行けばどうなるだろう。大きな変化、意志と成長、出会いと別れ。物語の醍醐味が失われていくかもしれない。

体系は秩序側かもしれない。その秩序が好きだ。
一方で、体系の秩序は混沌を前提としている。純粋な体系に置いて知足安分が意識されているものなど在りはしない。

そんなこんなで知足安分という言葉が嫌いだ。

だから僕は飢餓感を肯定しようと思う。

飢餓感の肯定-ここじゃないどこかへ

長く生きていけば変わっていくのかもしれない。

しかし今はこの飢餓感を大事にしようと思う。
きっとこの飢餓感は僕らをここじゃないどこかへ連れて行ってくれるものだ。

**報告**
はじめての有料noteを書きました。能力開発系です。
僕の能力開発論の3柱のうち1本の基礎を書いています。興味あればどうぞ。
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学習のアーティストを目指してます。学習ノウハウの体系化・学習体験のコンテンツ化を通して、学習者のレベルアップを手伝います。現状、お金よりも応援がほしい。