21 桂園時代

本時の問い「日露戦争は日本の政治・社会にどのような影響を与えたのか。」

第21回目の授業は桂園時代と呼ばれた日露戦争後の国内政治について扱いました。本時の問いは「日露戦争は日本の政治・社会にどのような影響を与えたのか。」でした。

日露戦争後の政治上の課題は何か

最初に資料集から日露戦争後の戦後経営について確認をしました。

軍備拡張・主要鉄道の国有化などを中心に進められたとありますね。

これを実現するためには戦争前からおこなわれていた増税の継続が必要です。

また、日本が植民地とした朝鮮半島、勢力範囲とした満州などの植民地経営の費用や巨額な内外債の返済も必要です。

ここでこれまでも何度も確認しましたが、政府が戦後経営の予算案を作り、増税を継続する法案を実現するためにはどのような手続きが必要だったでしょうか?

山県閥と立憲政友会の協力関係が桂園時代

政府のつくる予算案や法律案は議会の承認がなければ進めることはできません。藩閥政府は衆議院に基盤を持たないので、特に予算・法律案を衆議院で通すことが課題となります。そこで長州出身の陸軍軍人で藩閥・官僚勢力を後ろ盾(山県閥)とした桂太郎と、衆議院の第一党である立憲政友会総裁の西園寺公望とが、協力しあって交代で政権を担当し、日露戦争後のさまざまな政策を進めようとしました。山県閥は貴族院も政治基盤としていますから、山県閥と立憲政友会が手を組めば、政府が提出する予算案・法律案は基本的に通りやすくなります。ただし、もともと考え方の違う政治勢力ですからお互いの意見を取り入れつつ、自分たちの要求の一部は引っ込めるというような妥協は必要になります。そういう意味での協力関係です。

山県閥の桂太郎と立憲政友会の西園寺公望の協力関係成立の背景は、日露戦後の政策の実現だけではありません。次に資料集に掲載されている風刺画”日露戦争後の増税に苦しむ民衆”(「東京パック」1908年)が読者に伝えようとしたことは何かについて考えてもらいました。解説には

増税と書かれた重荷を背負い苦しむ民衆の周囲に、戦争で功績を上げた政治家、利益を得た商人などが描かれている。

とあります。

ここには日露戦争後の社会の中で増税に苦しむ民衆と戦争によって名声や富を得た人たちが対照的に描かれています。このような社会矛盾の拡大を可視化したのがこの風刺画だと考えることができます。日露戦争の勝利は人々に幸福をもたらしたのでしょうか。

さらに、日露戦争の勝利は日本の国家目標である「万国対峙」「不羈独立」が達成した瞬間でした。それは政府が国民に協力を求めるための統一目標が失われたことを意味します。社会が分断されていく中で、どのように国民をまとめていくのかという課題を解決していくために藩閥と政党の協力が必要だったということも言えるでしょう。

社会主義への対応

また、この時期に広まった社会主義運動への対応も政府の課題でした。

第1次西園寺公望内閣は、1906年に日本社会党の結成を認めました。この頃、社会主義運動は議会を通じた活動を重視する穏健派と、労働者の直接行動を主張する急進派に分裂し、しだいに急進派の勢いが強まっていきました。そのため、1907年に日本社会党は結社禁止を命じられます。そして、第2次桂太郎内閣のもとで、明治天皇の暗殺を計画した急進派を逮捕し、計画に直接関わっていなかった幸徳秋水など多数の社会主義者を逮捕します。そのうち孝徳ら12名は大逆罪が適用されて死刑となります。これを大逆事件(1910年)といいます。これ以降、取り締まりが強化され、社会主義運動は「冬の時代」と呼ばれる状態となりました。

個人主義の拡大に対する対応

第2次桂太郎内閣は1908年、国民の精神的引き締めのために戊申詔書を出します。これは通俗道徳を強調する内容でした。その上で政府は地方改良運動を進めます。これは日露戦争後の新たな国民統合のための手段だったと言えるでしょう。

通俗道徳

通俗道徳についてぜひとも読んでもらいたい本があります。それは、松沢裕作『生きづらい明治社会』です。

人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、日本の歴史学界では「通俗道徳」と呼んでいます。(松沢裕作『生きづらい明治社会』岩波ジュニア新書)

あの人が落ちぶれたのは、努力をしなかったからだ。

このような考えを当たり前だと思っていませんか。でもすべての責任を個人に負わせるのは本当に正しいことなのでしょうか。特に今のコロナ禍の状況では、自分ではどうしようもないことがあることを強く感じます。ぜひとも読んでもらいたい本です。

今日はここまでとします。

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