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11 自由民権運動

本時の問い「憲法制定が本格化したのはなぜか」

第11回目の授業は自由民権運動です。自由民権運動を一つのまとまりとして考えるのではなく、4つの時期に分かれるのだと言うことを意識した上で学習を進めていきます。今日の授業の大枠は、士族が中心の民権運動に豪農が参加して発展していく時期を扱います。そして、その結果、政府は国会開設を約束することになりました。

本時の問いは「憲法制定が本格化したのはなぜか」です。

自由民権運動の時期の民権派と政府の対立の軸は何か

自由民権運動の流れを見ていくと民権派と政府の対立の歴史だとわかってくると思います。では、両者の間にはどのような対立があったのでしょうか。1874年に民撰議院設立の建白書を政府に提出したことから始まった運動ですから、民撰議院つまり国会の開設が対立の争点になることはわかります。では、国会をつくってほしい民権派と国会をつくりたくない政府の対立だったのでしょうか。それは違いますよね。まずはそのことについて考えました。

これまでの授業では公議を求める声が幕府を倒し、明治維新につながったことを勉強してきました。つまり、政府も民権派も公議を集める機関である国会をつくるということにおいては一致していたのです。

士族民権に対して政府はどのような対応をとったのか

民撰議院設立の建白書が新聞で発表されると、国会開設をめぐる議論が特に士族の青年のあいだで広まり、各地に政社がつくられました。民権運動の発生に対して、政府は大阪会議を開催します。この中で徐々に立憲政治を実現する方針を明らかにしました。一方で讒謗律や新聞紙条例を制定して、反政府の言論を取り締まりました。

なぜ民権運動に地主や豪農が参加したのか。

民権運動の担い手が地主や豪農にまで広がったのはなぜでしょう。

1878年に府県会規則が制定され、翌年、府県会が開催されます。府県会は、住民の政治参加を実現します。これにより府県会の議員や有権者の間に政治に対する関心が高まります。これが自由民権運動への関心をひろげます。特に1870年代の終わり頃は地主や豪農が、農産物価格の上昇により生活にゆとりが生まれ、民権運動に参加します。こうして豪農民権と呼ばれる民権運動の発展期を迎えます。

1880年国会期成同盟がつくられ、8万7000名余りの署名を連ねて政府に国会の開設を請願します。さらに民権派の人々のなかに、みずから考えた憲法案を書き起こすものも現われます。そう考えると、民権運動は国家を担う国民としての自覚を高めたとも言えますね。

政府内部では国会開設の時期をめぐる対立があった

この時期、政府首脳のなかでは、国会開設の時期について大隈重信は早期の開設を主張します。それに対し、岩倉具視・伊藤博文らは国会開設は時間をかけて準備するべきとしていました。そのなかで、1881年、開拓使官有物払下げ事件がおこり、政府を批判する世論が高まります。

これに対し政府は、この政府批判の運動に大隈が関係していたとして辞職に追い込み、一方で国会の開設を1890年に実現することを約束することで政府批判の声を押さええようとしました。ここに政府は国会開設、憲法制定に向けて本格的に動き出すことになります。

今日の話はここまで!

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