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仏と神と大厄の私

今年は大厄年。前回の厄年は高校から大学への進学時期だったが、私は厄祓いをしなかった結果、散々な目に遭った。
なので、今年こそはと思い馴染みの寺に厄祓い祈願しに行ってきた、という、そういうレポと、いろいろな宗教観について語らせていただく一稿とさせていただく。
一つ言っておきたいが、私は絶対的にこの宗派に帰依する、という考えはない。(ここでは日蓮宗を取り扱う)ただ、別の記事にも書いた通り、死んだ姉と名前を考えてくれた僧侶がそこにいるから、会いに行くだけだ。

星まつり

1月28日。
その日我が家が檀家の寺では、「星まつり」というイベントが開催された。

星まつり(ほしまつり、星祭り)は、旧暦の元旦や、立春、冬至などに行われる仏教の儀式で、天下国家に起こる各種の災害や個人の災いを除くものである。

Wikipedia

この日は節分のための星まつりだ。まさに厄祓いにもってこいのイベントである。

しばしの読経とお焼香の後、豆まきを行う。豆の撒き手は、年男や年女、厄年の人が対象だ。辰年の男女と大厄の私は、簡単なお菓子と合わせて、手にいっぱいのお菓子を放り投げた。
掛け声は、「福はうち」のみだ。鬼子母神がおわします場所だからである。

豆まきが終わったら、次は正月もちでぜんざいを食べた。

いただいたぜんざい。餅はちゃんと焼いてある。

ぜんざいは、漢字で「善哉」と書く。
日蓮宗のお経・欲令衆の中の一説にも「善哉善哉、釈迦牟尼世尊」という文言があるが、「善(よ)き哉(かな)」の意で、素晴らしさを讃える言葉だ。元は梵語(サンスクリット語)だそうだ。
千と千尋のオクサレ様が、風呂上がりに言い残したのもこの「よきかな」である。
一説によると、島根県出雲市の神在餅(じんざいもち)にも由来しているといわれ、この小さな椀の中にも、神仏習合は現れてくるのである。
いやあ、善哉善哉。

食べ終わってやうやくのうちに厄祓い祈願。
大きな声や音で読経をすることで、厄を追い払っていただく。厄年の私以外も、新しく会社を建てた方や、健康祈願をお願いする方もいらっしゃった。
お守りの念珠は、焚きしめたお香の匂いか、白檀の香りか、存在感を知らしめるように鼻腔を刺激する。

豆は今日食べました。32個以上食べてしまった。

龍について

ところで、神仏習合といえば、「龍神」とは、神道なのか仏教なのか、悩ましいところだ。我が通い寺にも、そこかしこに龍神の調度品が置いてある。寺の名前に「泉」がついているため、水に関連する神様を、寺に遇らっているようである。辰年の本年は、龍神様もさぞや忙しかろう。そもそも、十二支の中で唯一の神なのもなかなか圧が強い。

龍・龍神とは

龍は紀元前6000年から現れるご長寿の神獣だ。水を操る神で、栄光や権力の象徴でもある。
五龍神は五行思想で金、黒、青、赤、白の龍がいると言われる考え方だ。これは陰陽五行思想とも呼ばれ、文字通り、陰陽道の産物である。
また、古事記ではみずちやヤマタノオロチが龍神に相当する。水に関連する蛇のような姿をした神といえば、龍神をおいて他にないだろう。川が氾濫して民家を飲み込んだ様子を龍に例えて話した、といった、教訓めいたストーリーを想像するに難くない。
仏教の話で言えば、京都の『神泉苑』の話が面白い。私が一番話したいのはこの神泉苑だ。

神泉苑(京都市中京区)

桜の季節に撮った神泉苑の泉

神泉苑は、二条城の真南にある。昔は二条城の一角だったが、時代を経るにつれて分離したとされる。源義経と白拍子だった静御前が出会ったところでもあり、5月頭に狂言が毎年開催されている文化的なところでもある。

800年代の大旱魃の際、嵯峨天皇は西寺の守敏と東寺の空海(弘法大師)を呼んで雨乞いをするよう言いつけ、雨乞い対決をすることなった。
守敏が先に祈祷するも、雨は思うように降らない。気に入らない守敏は龍神を瓶に閉じ込め、空海の祈祷を邪魔することを計画した。
空海はそのことにいち早く気づき、一尊だけ難を逃れた北天竺の「善女龍王」を神泉苑に勧請した。無事に雨は降り注ぎ、守敏の在する西寺は崩落の一途をたどった。一方東寺は今も盛況で、京都駅からもほど近い。毎月21日には弘法市を開いて賑わっている。
「善女龍王」は歳徳神(五行思想)とも関連が深く、神泉苑の中の恵方社は毎年恵方に向けて社の向きが変わるのも、ここの面白いところだ。(節分の話に戻って来れた!)

なぜこんなにも神泉苑に篤いかと言うと、つい3ヶ月前まで住んでいた家の近くだからだ。厄年でもないのに信じられないくらい酷い目にあった時、神泉苑に我流の御百度参りをした。毎日5円を持って、休みの日も仕事の日も必ずお参りしに行ったのである。
その甲斐あってか、色々な波乱が落ち着いた。善女龍王ならびに弘法大師のお陰様である。今まで私は、自身の変化の時によく雨を降らせていたわけだが、きっと龍神様が私の背を守ってくれていたのだろう。

節分

再三知識人ぶったことを述べてきたが、いまから今年の節分についての個人的感想を話す。読み飛ばせばよかろうなのだ。

昨日、非常に豪勢な花金飲み会を行った。(人間関係が良好であることは、ある意味僥倖である)栄の街では大須の豆まきを案内する車も通り、恵方巻きも売れていた。
「鯱輪」という有名な激辛ラーメンを〆で食べたら、今朝は凄まじいぽんぽんペインで目を覚ます羽目になった。
そこで節分豆だ。節分豆が、優しく私のお腹を満たしてくれた。

失敗談続きで恐縮だが、私はイカが苦手である。
恵方巻きは恵方を向いて一言も喋らず願い事を念じながら食べるイベントだが、幼き頃に食べた恵方巻きに、どうしても噛みきれないイカが入っていた。
食している最中に噛みきれないイカを無理やり飲み込んだ。するとどうだろう、喉の奥と口腔内でつながったままどっち着かずになってしまったではなイカ。
喋ってはならない vs めっちゃオエってなる
ただただ苦しくて、願い事を忘れた。それ以来、イカがどうしても苦手だ。

鬼よ。なんだかわからんが毎年苦手なものを投げつけられるという災難な鬼よ。私もイカを食べるから、鬼も豆を食べよう。
鬼を受け入れることも、私は厄払いになると思うのだ。
鬼子母神てのは、そういうことなんだろう?


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