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立場とか肩書とか関係なく伝えたかった

コロナが流行し始めた去年5月にnoteを始めた。コンスタントに書くようになったのは最近だが、心を見つめ、言葉を紡いでいくことは、私が仕事としている映像表現とはまた違って、穏やかで、静かで、なんとも言えず心地よい。映像表現は「動」なら、書くことが「静」。どちらをやりたいかで、そのときの自分の状態が分かるという側面もあるかもしれない。


これまでFacebookやブログで書くことはしていた。ただブランディングやセミナー告知、集客に向けたお役立ち情報を発信する場という前提があったので、自由な発信ができない葛藤があった。

さらに言えば、自分自身や自分ができること、これまでのキャリアや実績をアピールする必要があったので、今思うと、鼻につく投稿が多くて、ブログは数ヶ月前に閉鎖した。そして過去の投稿が上がってくるFacebookは、今では開くことに躊躇があるのが正直なところだ。


私は誰もが知るテレビ番組のディレクターをかれこれ18年ほどしている。このことは事実で、これまで命を削って仕事に打ち込んできたので、その肩書や立場は確かに私の一部だ。それを人が私という人間をみる判断材料にするのはごもっともだろうと思う。

起業塾ではまずその肩書を武器に、ブランディングと集客する流れを創ることを勧められた。その教えを素直に実践した結果、起業家の第一ステップである月商7桁はすぐに達成できた。そのまま走り続けていたら、今、どんな人になっていただろう。


しかし私は走り続けることができなかった。空虚感に襲われ、動けなくなってしまったのだ。外側のキラキラした演出には成功したが、私の内側が追いついていかなかった。


それでも元来の“伝えたがり”なので、発信はしていたかった。だから最初は本名を出さず、肩書も出さず、このnoteを始めた。誰もこれまでのキャリアもどんな人かも知らないステージで、一個人として、まっさらな気持ちで発信したいと思った。もちろんこれはこちら側の事情なので、読んでくださる方には全く関係のないことだ。それでも今、強く感じていることがある。


それは、紡ぐ言葉とそこから滲み出る“感性“の共鳴が、このnoteにはあるということ。この共鳴こそが、私が心の底から願っていたもので、それが起こったときの喜びは何ものにも代えがたい宝物だ。


これからも内側から溢れ出るものを書いていけたらと思っている。


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