もう一つのアルバム

先日、部屋を掃除しているときに古いアルバムが出てきた。そのアルバムは小学校時代から高校時代までの写真が収められたもので、懐かしい友たちが昔のまま写っていた。

私は懐かしい思いでそのアルバムの写真を一枚一枚眺めた。そしてすっかり心が満たされた後、ほかにもアルバムがあることに気づいた。

そのアルバムは私がまだ会社に勤めていた頃、休日を利用して撮影したものだった。東京を中心に、神奈川、千葉、茨城などさまざまな場所で撮影されたもので、その大半はアナログ式のカメラで撮影されたモノクロ写真になっている。当時私はさまざまな美術館を回っており、しだいにモノクロ写真に興味を持つようになっていた。

アルバムは全部で4冊あった。中は印刷されていないネガの状態で、1枚のネガは36枚撮り。それが何十枚もびっしりとアルバムに収められている。おそらく1冊のアルバムだけで数千枚はあることだろう。電灯の光で透かして見てみると、ぼんやりと見覚えのある場所と、もうすっかり私の記憶からは消えてしまった写真が混在していた。

見覚えのない写真は私に不安を与えた。そこでは見知らぬ場所で見知らぬ人やモノが写り込んでいる。なぜそのような写真を撮ったのか、全く分からない写真がたくさんある。

だが、それらは間違いなく私が撮ったものだった。私が持っているネガに他の人のものが入り交じる可能性は全くない。その場所に行った記憶がないにせいよ、それは確かに私がどこかに出かけて撮影したものなのだ。

人間の記憶は時間とともに古い情報が消えていくようにできている。だから通常の場合、3年前の休日に何をしていたのかなんてきれいさっぱりと忘れてしまう。

日記というのは、そうした忘却される情報を自分の内に留めておくための手段なのだろう。その日自分が行ったことを簡単に記しておくだけで、どんなことをしていたのかは大体思い出せる。

だが、写真というのはもっと生々しい現実を刻印する。私たちの記憶は実にあいまいなものだが、写真は現実をねじ曲げるものを一切受け付けずに、現実だけをリアルに生々しく私たちに突きつける。

すでに私の記憶から完全に消えている写真は、私がかつてその場所にいたという事実を、ありありと突きつける。そして、その場所で何かを感じ、残そうとしたことも余すことなく伝える。それは私自身が否定しようとも、否定することが決してできてない生身の現実なのだ。

長い間、私はそれらの写真を見ることはしなかった。私にとって写真とは「見る」ことではなく、「撮る」ものだった。撮影中に感じる瞬間をえぐり取ったような感覚が私は好きだった。だから、その中の一番よく撮れたものだけを人に見せられれば十分だと思っていた。

しかし、今、私はその考えが間違っていたことに気づいた。私が最も見るべきだったのは、傑作には決してなりえない写真だったのだ。どうしてその1枚を撮ったのか分からないような凡庸な写真にこそ、私がそのとき心動かされたものが写っている。

その写真を他の人に見せる価値などはない。見せたところで何の意味もないことは分かっている。

だが、それは紛れもなく私自身なのだ。

私が生き、感じ、何かを残そうとした心の記録。

もう一つのアルバムはどんな言葉を使っても表すことのできない、ありのままの私を伝えている。




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Burari

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