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東京の花火

私の地元では毎年夏の終わりに小規模の花火大会が催される。打ち上げられる花火の数はそれほど多くはないが、そのぶん花火が打ち上げられたときの感動はとても大きい。私は次の花火が打ち上げられるまでの間、胸をふくらませて見ていたものだった。

打ち上げられた花火は弧を描くようにして夜空いっぱいに花開く。それはほんの一瞬の出来事で、夢のようにはかなく消えていった。私にとって花火とはそういう刹那的ではかないものだった。

しかし、東京での花火は私の考えを一変させた。

花火大会の当日には、突如としておびただしい数の群衆たちが一挙にどっと押し寄せて、瞬く間に会場周辺が埋め尽くす。浴衣に身を包んだ男女、賑やかな露天、警察官の必死の誘導と笛の音。まるで舞台でも始まるかのような熱狂がピークに達したころ、花火は派手派手しい音楽とともに打ち上げられていく。

そして、際限なく続く花火の乱舞。それはまるで生き物のように自由に夜空に駆け巡り、人々をさらに熱狂させていく。歓声、拍手、ため息。花火が打ち上げられるたびにそれらも際限なく続いていく。

私はその様子を見て唖然とした。そこには刹那的な美はおろか、日本的な美の片鱗すら感じられない。

もちろん、伝統的な花火も多数打ち上げられている。だが、それらは西洋的な派手派手しい花火の中で、完全に存在感を失っている。

西洋の花火は「ショー」のように観るものを楽しませる。花火が炸裂した瞬間に味わえる言いようのない快感。打ち上げられる花火が多ければ多いほどその快感は増してくる。

私はここで故郷の花火の方が良かったなどというつもりは毛頭無い。むしろ東京の花火は、私に新しい「花火」の存在意義を教えてくれたのだと思っている。

次々に打ち上げられる花火は、まさに「戦場」だ。

「私の方が美しい」、「いや、私の方が美しい」「いやいや、私の方だって負けていない」

それぞれの花火が互いの美を競い合って激しくぶつかり合う。それは一瞬で終わる生命と生命との激しいぶつかり合いだ。。

東京の花火を初めて見たとき、私はその激しいぶつかり合いの意味をまだ十分に理解していなかった。私はこの東京の荒波に幾度となく流され、そこで何度も踏みつけられて、ようやくそれを理解することができたのだった。

この生命と生命の激しいぶつかり合いは、この街で繰り広げられている激しい生存競争をそのまま象徴している。そしてそれゆえそのぶつかり合いは、その過酷さを一瞬でも忘れさせるために強烈でなければならなかったのだ。

現代においても、過去から脈々と受け継いできた「祭り」の機能は失われていない。それは「呪術」から「花火」に姿を変え、人々の心に山積したあらゆる負の感情を浄化し続ける。

人々は明日からまたいつも通りの日常を過ごすことだろう。夜空に舞った一瞬の夢を胸に秘め、今日も彼らは生命の火花を散らし続ける。




このエッセイで使用した写真は以下のカメラで撮影しています。

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