いかに物質的な生活から抜け出すか?

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「現代人は物質的な生活に陥り過ぎている。」
最近よく耳にするようになった表現ですが、そもそも物質的な生活とはどのような生活のことを意味するのでしょうか?  そしてそれは具体的にどのような害を与えるものなのでしょうか?  物質的な生活の意味とその害について明らかにし、そこから抜け出す方法について考えてみましょう。

物質的な生活とは?

「物質的な生活」という言葉を聞いて、何かモノを豊富にもっているとイメージする人も多いことでしょう。「物質的に豊かになっても、精神的には貧しい」という言い回しもよく耳にします。しかし、ここではもっと意味を拡大して、物質的に豊かになった「生活」そのものを指すものとします。

私たちの社会は、生活するのに本来必要でないものを求め、それを手に入れるために働き、多くの時間を割くようになっています。テレビや車、見栄えのいい服装、立派な家屋などはそれがないからと言って生きていけなくなるわけではありません。身の周りのものを見渡せば、生きていくのに必要でないものはもっともっと見つかることでしょう。私たちの生活は生存することとは無縁のもので満ちあふれているのです。

しかし、それが豊富にあることは決して悪いことではありません。問題なのは、それらを手に入れようとするあまり、自らの心の内面を見つめようとしなくなることです。

モノやサービスがあふれている社会というのは、裏を返せばさまざまな欲望を抱かされ、衝動的に快楽を求めるようになりやすいということです。もっと具体的に言うなら、仕事から解放されたあなたは、自分の心がどのような状態であるのか全く知ろうともしないで、テレビを見たり、自分の趣味に没頭するなどして余暇の時間を過ごすことでしょう。

つまり、物質的な生活とは自らの内面を省みることなく、欲望のままにいきることを意味するのです。

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現代人がこの「物質的な生活」から脱するのは容易なことではありません。なぜなら、私たちがひとたびそこから脱してみようと試みれば、数えきれないほどの無数の誘惑がたちまちあなたの心を独占しようとするからです。

私たちが豊かさを求めて作り上げたモノやサービスの中には、人間を内面から遠ざけてしまうものが含まれています。その事実を知った上で、物質的な生活の真の意味を知り、そこから脱しようと試みること。それが唯一、私たちの生き方をよりよいものへと変えていく方法です。

心の共存者について

私たちの心は自分自身の思考とは別に「意志」をもっています。そこには自分が何を求め、どうしていきたいのか、という今後の人生の指針とも言うべき、道標が示されているのです。そういう意味では「心」は私自身の「自我」とは完全に一致しているものではなく、共に「私」という人間の中に存在する「共存者」とも言うべき存在です。

私たちは何らかのきっかけで進むべき道に迷ったとき、この共存者「心」と出会うことになります。人は深く悩み、苦しみ、道に迷うことによって、自然と自らの心の声を聞こうとします。

自分はこれからどうしていくべきか、何度も何度も問いかけて自分の存在を貫く答えを導くようにするのです。そのとき「心」は最良の友となり、あなたの苦しみや悩みに真摯に耳を傾けることでしょう。そして、耳には聞こえずとも、しばらくしてから私たちははっと気づくことになるのです。

「悩み」が解消するとは、「私」自身と心の意志との共同作業であり、そのどちらが欠けても成し遂げられないことなのです。

私たちは通常このような心の働きかけについて何も気づいていません。私たちは非常に残念なことにそれがあたかも自分だけでの力で成し遂げられたように思いこんでしまうのです。

それゆえ、私たちは自分の心の中にある、共存者とも言うべき存在に感謝することはほとんどありません。私たちは自らの助けとなる力の存在を誰からも知られることなく、生きているのです。

この関係を分かりやすくとらえるために、試しに一度想像してみて下さい。

あなたがふだん何気なく過ごしている生活の中で、実は見えない誰かがあなたを見守り助けている存在がいます。一方は相手をよく知っており、もう一方は相手のことなど全くおかまいなしに生きています。この非常にアンバランスな状態は、一見、片方の無償の善意によって成り立っているかのように思われます。

しかし、あまりにも私たちが、この共存者の想いを踏みにじるような行いを続けていたら、無性によって行われていた行動はしだいに遠のき、とだえていくことになります。では、私たちを陰ながら助け続けている存在を踏みにじる行為とは何でしょうか?  実はまさにそれこそが「物質的な生活」とも言うべきものなのです。

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物質的な生活がもたらす害について

心(共存者)が遠のいていった後、あなたの心は以前より増して様々な誘惑(欲望)にとらわれやすくなっていくことでしょう。何か面白そうなことがあればそれに飛びつき、何か心よく感じられるものがあれば、それを絶えず求めるようになります。あなたは自分が本来するべきことを忘れて、ただ衝動的になって、感じるままに生きるようになります。

誤解されないように付け加えておけば、これは自分を向上させようとする行為、例えば、ある資格を取得するために勉強するといった行動にもあてはまります。その行為が自分の心の内に根ざしたものならともかく、たんに「今よりもいい生活がしたいから」といった自己的な欲求であれば、自分の心にとって正しい道を歩んでいることにはならないのです。

この点は、私たちが生きている社会の常識とは大きくかけ離れているところです。私たちの社会では、よい学校や会社に入るために勉強することは無条件で理にかなった正しい行動であると見なされます。そして自分の内面に目を向けることにより、試験に出そうな事柄を暗記したり、難しい数学の問題を解いたりすることの方が重要なものとみなされます。

しかし、それは(多くの人が信じられないことだと思いますが)、非常に間違った考え方なのです。

私たちがこの世に「生」を受けている以上、根本的な土台となるのは、自分自身の「心」です。人は自らの心の内を正しく認識することで、初めて外界の事柄に目を向けるようになります。「心」とは思考と無縁なものではなく、その土台となるものなのです。

私たちが最も気をつけなければならないことは、心の内面を見つめることをせず、やみくもに衝動的に生きることです。次から次へと欲望にとりつかれ、さらに快楽を求めて新たな欲望にとりつかれます。そして、満たすことのできない欲求は、いつしか私たちの想像をはるかに越えて私たち自身の体を乗っ取るようにさえなります。

自分の心の内面をよく見つめようとしない人は、自分を支える「芯」を失います。その「芯」を失った人間は自分をコントロールさえできずに、しだいに体にも変調をきたすようになります。吐き気、めまい、動悸、息切れ、不眠、体のいたるところからの痛み、病気。それらはたんに物理的・生理的な現象なのではなく、自らの心を省みることをしなかったことから生じる「リベンジ」(復讐)なのです。

私たちの体はしだいに蝕まれ、やがて生きる力ともいうべき意志がしだいに薄れていきます。その変調が現れたとき、途方もない苦しみが理解すらできないまま続くことでしょう。

人間には生きるためにやらなければならないことがあり、どうしても義務を果たさなければならないことがあります。しかし、そのような変調が訪れたならば、今すぐすべてを投げ捨てて自分の心に目を向けなければなりません。それはたとえ優れた医師にでも治すことができない病であり、生命の危機です。他人の力を借りる必要性があったとしても、その病を根本的に治癒できるのは、あなた自身でしかないのです。

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物質的な生活からぬけ出す方法

あなたがもし、本当に物質的な生活から抜け出したいと思っているなら、やるべきことはたった一つ。歩みを止めて、自分の心の内面を見つめることです。楽な姿勢で目を閉じ、心の中に浮かんでくる様々なことに、一つ一つ眼差しを向けてみましょう。あなたの心の中に浮かんでくる映像は紛れもなく、あなた自身の過去であり、あなたが歩んできた道です。その過程で出会った事柄は、言うなれば必然的なものとしてあなたの身に起こったことなのです。その中にはどうしてもあなたが目をそむいてしまいそうなこともあるでしょう。あなたは思わず目をそらして他の事柄に目を向けようとするかもしれません。

しかし、あなたが目を背けようとする事柄には、あなた自身がどうしても向き合わなければならない根本的な問題が隠されています。その問題と静かに向き合い、どうすればよいのかと考え続けるうちに、あなたはより深い場所に根ざした自己の問題に向き合っているということに止まりません。あなたは明らかにさっきまでとは違う道へと歩み始めたのであり、そういう意味ではそれがたとえどんなに苦しみを伴うものであっても、心をより健やかなものに変えていく方向へと動きだしたということでもあるのです。

物質的な生活から抜け出して精神的な生活へと歩み出すためには、まず第一にそうした自己の心の内面を見つめる作業から始めなければなりません。思い出したくない過去に込められた苦しみと向き合うことで、人は自己の魂をより深いものへと変えていき、やがてその過去の苦しみも乗り越える力を得るようになります。そしてそれまで感じていた否定的な感情は消え去り、心が安定してきます。以前よりも澄み切った眼で物事を見ることができるようになり、自分はなにをすべきで、どのように行動すべきかが自然と分かってきます。

こうした様々な影響はたんに瞑想という行為の結果ではなく、「魂の法則」とも言うべき、永遠不変の法則に則っていることから生じます。私たちは自らの心が正しい方向に向かい、安定するために絶えず、自分の内面に目を向けなければなりません。

これは誰かに暗示をかけてもらうという間接的な方法でなくても、真っ白な紙を目の前に置いて、心に浮かんできたものを自由に書いていくという方法でもできます。あなたがもし、自分の心の内に存在する共存者とも言うべき存在を受け入れることができたなら、そこに描かれる一つ一つのことに、あるいは断片的な言葉の群れに、自分の心が発したメッセージが潜んでいることに気づくでしょう。

そこには確かにあなた自身が抱えている問題があり、向かうべき道もあるのです。その道が見えたとき、あなたは以前のように理由も分からないまま苦しむことはなくなるでしょう。より心の深い領域へと足を踏み入られようになったあなたは、もはや自分自身のエゴにとらわれることなく、この世で生きる多くの人たちのために力を尽くすようになります。

それは魂の法則に則ったことであり、心が健やかな状態を維持し続けるということでもあります。あなたはもう再び同じ過ちを犯すことはなくなるでしょう。そして自分にとって何が価値あることであり、よりよく生きるために何が必要であるのかを悟ることでしょう。

物質的な生活から逃れて精神的な生活をおくることで、あなたの人生はこれまでになく大きく変わり始めるのです。


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