0916/死ねなくなっていく

今日、たまたまfacebookを覗いたら、つい先日も遊んでいた友人が「死にたいなって思うことなんて正直全然よくある」と書いていて、ああ、なんて書けばいいんだろ、と、考え込んでしまった。

友人は、たぶん今すぐ「死にたい」ってわけじゃない。でもこのまま生きていく意味って、あるんだっけ?世の中にあるものって、多分すべて別になくてもいいもので、だったら消えてもなんにも困らないのでは、みたいな。そんなことをぐるぐると考えてしまう日でそれを吐き出したのだろうという感じだった。わかる、と、わからない、でぐるぐるする。コメント欄に「共感」と「心配」が渦巻いていく。(それらが何だか気持ち悪くて更にぐるぐるする)


それを見て「わかる」いや正確には「その感覚に覚えがある」のだけれど、でもなんだか、友人のそれが、いいんだけど、ほっとけなくて。うまく言えないのだが、たぶん正直に言えば「さみしい」だったのだと思う。

「死んでもいい」っていうくらいの自由さと恐ろしさと、それでもなんとか生きてく選択をしていくこと、それってエネルギーがいる。なんだか、それっておっきなエネルギーで、私は、いま、そこからちょっとずつ離れていってしまっていて、離れていってしまっていると、きっと思われてもいて、それは寂しくて、でもどうにもしょうがなくて、でも寂しいからそんなこと言わんといてほしいし、私が寂しいから生きてよ、と傲慢にも思うのであった。

友人はきっと「死ねない」っていう私に対して、なんだか、ちょっと寂しいって思うのだろう。実際になんだか寂しいってメッセージをもらったこともあった。
「寂しい」が寂しくて、まだ私が1人のうちに、2人でぐちゃぐちゃに語る夜がしたくて、でも私はお酒も飲めないし、結局「たべもの」の話を延々としていた気がする。ほんとはそうじゃなくてもっとぐちゃぐちゃなところにいきたいのに、素面でいけない私がいた。話は途中で堂々巡りしていた気がする。それはそれで楽しい、楽しいのだけれど、時間が足りなかった気がした。

私は、なんだか、
どんどんと死ねなくなっていく。

それはちょっとだけ窮屈な気もして、死ねないから私はしあわせってことでもなくて、ただただ、事実として、死ねなくなっていっている気がする。いま、あなたはそろそろ死にますよって言われたら「え、それは困る」と言うだろう。たぶん生とやらに、しがみつきたくなってしまう。


プロポーズを受けた時に「いますぐ死んでしまってもいいくらいの幸せで、これから絶対に死ねない幸せで。そういうことなのかなと思う」なんてブログに書いていた。(人生クレッシェンド計画 という名前のブログ)

そこから約1年半。


いま臨月で、お腹のなかで、まもなくこの世の中に出てこようとしている命、ちっさいのにもうずいぶんとずっしり重たい命が育ってきている。この子に関して言えば、私が、そして夫が、親なわけで。そうなってくると、いよいよ本当に、「ああ、死ねない」なんて思う。

そして覚悟をきめて(いや、覚悟なんて決まってないのに勝手に放り出されるのかもしれないけれど)えいやと生まれてきた命が「なんだかんだ、生きててよかったわ」って言えるように、できるだけ見守り続けたい。私とは全く別の命。でもたぶん私自身のことよりも大切になってしまう命。

「どんな子に育ってほしいか」だなんて、押し付けがましいことを願うのはエゴだ、エゴだと思うものの、そうだな、生きることが悪くないと思える、そんな瞬間がたくさんある人生になるといいな、なんてやっぱり願ってしまう。
どうしたって願ってしまう。

だから、か。
友人の「死んでもいい」が寂しいのは。


私は私の大切な人たちに死んで欲しくない。

それはもう、本当にエゴだって、わかってる。でも死にたい時に「ちょっとよってみよか」ってなれる保健室みたいな人間になりたい。「死にたい」って言ったっていい。「死にたい」は「生きたい」と一緒だなんてそんな臭いことを押し付けるつもりもない。でも死にたい夜もあるけど、そういうときにちょっと思い出してもらえたらいいのになんてエゴまみれで思う。


大切なものが増えていくことは怖い。
守りたいものも多すぎる。

でも、だから、死ねない。
私はまだまだ死ねない。


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