岩波書店編集部編 『翻訳家の仕事』

★★★★☆

 2006年に岩波新書から出た本書は、雑誌『図書』に掲載されていた「だから翻訳はおもしろい」という連載をまとめたものです。名だたる翻訳家総勢37名が翻訳について語っています。

 主な翻訳者は亀山郁夫、柴田元幸、高見浩、野崎歓などなど。今年、全米図書賞翻訳部門を受賞した多和田葉子や、村上春樹を英訳しているアルフレッド・バーンバウムもいます。


 翻訳というのはどういう行為なのか? 考え始めると、霧の中を歩いているような気がしてきます。一般的には、ある言語で書かれたものを、べつの言語で表すことなのだけれど、たいていの一般論があまり役に立たないように、これでは何の答えも得られません。

 べつの視点から考えてみましょう。

 翻訳をするには原文がなければいけません。原文なしで翻訳したら、それはただの創作になるからです。
 まず、原文がある。「はじめに言葉があった」と始まるヨハネの福音書に倣うなら、翻訳の聖書には「はじめに原文があった」と書かれているにちがいありません。

 原文があるなら、それを読まないとなりません。原文を読まずに翻訳したら、やっぱりそれも創作になってしまいます。

 そして原文を読むなら、正確に読まないといけません。適当に読んで訳すと、それは翻訳ではなく誤訳になるからです。

 ここで問題がひとつ発生します。「正確に読む」というのはどういうことなのでしょうか?

 語学が堪能であれば、書かれている内容を理解し、情報を過不足なく日本語に移し替えるのは可能でしょう。けれども、それは和訳であって翻訳ではありません。

 翻訳というのは情報を移し替えるだけでは十分ではありません。書かれている内容から、書かれていないことまでをも読み取り、それを表さなければならないのです。
 そこに翻訳という行為の奥深さがあります。たぶん。

 本書に出てくる37名の翻訳者は全員が翻訳という森の中でうろうろしている人たちです。木を揺すり、落ち葉を掃き、土をほじくり返しては、森(原文)の全容をつかみ取ろうとしています。それと同時に、そんなことは不可能であることも承知しているようです。森の中にいる人間には、森の全容を理解することなどできません。
 全容をつかむには外側から眺める必要があります。けれども外から見ているだけでは、森を理解した気になるだけで、真の理解には到底及ばないでしょう。

 不可能を承知で、少しでも近づきたいと足掻く。翻訳というのはそういう行為なのかもしれません。

 なんともロマンチックな響きです。でも、どこか既視感があります。似たような行為を僕らは知っています。
 人はそういう行為を恋と呼びます。
 なるほど。翻訳者というのは原書に恋をした人なのでしょう。
 となると、本書は37名の一風変わった恋の話なのかもしれません。

追記
 わりと知的で高尚な話題が多い中、「そもそも翻訳なんてちまちまちした面倒くさい仕事が楽しいはずがないのだ」と言ってのける金原瑞人の発言には味わいがあります。
 翻訳者といっても、みんながみんな楽しく翻訳しているとしたら、それはそれで不自然です。一人くらい「めんどくせー」と思いながら訳してる人がいる方がなんだか健全な気がします。

 なかなか興味深い一冊なので、現在は絶版になっているのが残念です。

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