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「五日市のおやきが何故甘いのか!?」【みちくさストーリーNo①】

「五日市のおやきが何故甘いのか!?」

 長野県の山間部は急峻な地形や寒冷な気候から稲作に適さず、古くからソバや小麦が栽培され、食されてきました。この秋川渓谷においても、平らな土地が少なく、畑作中心で、同様の食文化がありました。「おやき」はまさに場所は違えど、地形は似ている両地域の食文化の共通性を示すものであるといえます。

 ところが両者の中身(餡)は対照的です。近年お土産品として様々な食材が餡に使用されているので比較し難いのですが、元々の餡を比較すると、長野県のものは野菜や山菜が中心であるのに対して、五日市のそれは小豆が餡になっていました。また、形についても長野県のものは厚みがあり、具沢山でボリュームがあるのに対して、五日市のそれは非常に平ら(1cm強)で、必然的に中身の餡も少ないのが特徴です。長野県のおやきが小麦粉や雑穀粉の皮で餡を包み、焙烙で表面を軽く焼いて乾かしてから囲炉裏の熱い灰に埋め、蒸し焼きにした食品だった。(ウィキペディアより)のに対して、五日市のおやきは焙烙で焙って作ったお茶菓子の要素が強い食品です。もともとの成因は同じであった両者にどうして差異が生じたのか?それには五日市の歴史的な背景が大きく影響しているようです。

 五日市は関東山地の東の端に位置し、大消費地江戸がある東方が開けた盆地です。江戸時代には炭の市や江戸への木材の供出など物流の要衝として大いに栄え、黒八丈と呼ばれる絹織物などの贅沢品も生産され、通称「五日市」の名で全国的に流通したようで、当時の五日市には商品を納入する山方の村人と買い付けにきた町方の人々や商人、旅芸人など多くの人々で賑わう活気ある街だったようです。(渋谷が村だった時に五日市はもう町だった。)その集大成としての五日市憲法草案の起草に至る活動は当時の五日市の経済的・文化的高まりを如実に表しています。このように人、モノ、金が集まる街であった五日市には砂糖を使った和菓子のような贅沢品を売るお店も軒を連ねており、一説によると明治の頃、和菓子屋に居候していた旅芸人に対して、見兼ねた店主が素人でも簡単に作ることができるおやき(店で売るような商品ではない。)の製法を店で余った小豆餡を使って教え、その芸人が山方にある当時の乙津村で店屋を始めたのが、五日市おやきの原点であるといわれています。その店が評判となり、店からおやきの作り方を学んだ農家の女性が家々で作るようになった結果、五日市のおやきは腹を満たす食品ではなく、囲炉裏端でのお茶のお供につまむ小豆を使った甘いお茶菓子として五日市周辺で作られるようになったようです。

 このように、秋川流域の地形や地質(ジオ)が地域の自然や歴史文化などに大きな影響を与えた結果としての「五日市が栄えりゃ、おやきが甘くなる」という物語が、ほかにもいろいろありそうです。今後もみちくさから気が付いた地域資源(のらぼう菜や横井戸、ハチミツなど)大地と人の物語=ストーリーを紹介していく予定です。


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