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Monologue|鬼を愛して福を呼ぶ

こんにちは。

今日は立春ですね。

まだ寒い日もありますが、日中におあ日様が照らせば、どこかポカポカ陽気になってきたなと感じる日も増えてきました。

立春といえば、旧暦上においての正月のことですよね。

その前日が節目であるということで節分とされ、新年を迎える前に厄を払って福を入れましょうとそんな感じのイベントになっていると思います。

さて、ここで一つぶっ込みたいのは、僕は現代における節分の豆まきという行事があんまり好きではありません。

豆を食べるのはとても好きなのですが、豆をまくってどういうこと?みたいな。

さらにもう一つ付け加えると「鬼は外、福は内」の掛け声。

幼稚園や保育園、あるいは一般家庭内に置いても、誰か大人の人が鬼のお面を被って、子どもたちが必死に「鬼は外!!鬼は外!!!」と叫びながら豆をぶつけていますよね。

僕自身も小さい頃経験ありますし、この時期になるとニュース等でも節分の様子なんかも取り上げられたりして、そういった豆を鬼にぶつけるシーンを多く目にすると思います。

今になってそういった光景を見る度に、どこか心が痛くなるというか、ぶつけられている大人もかわいそうなのですが、何より子どもたちが鬼を追い出そうと本気になっている姿に違和感があって…。

鬼ってそもそも何者なんだ?と。

・・・

遡ること平安時代。

当時に「隠|《オヌ》」という言葉があって、要は見えない存在を表す意味を表していました。

人々を脅かす自然災害とか病気とか、そういった目には見えない災厄のことを指していて、その後に大陸から入ってきた鬼という漢字が当てはめられたそうです。

そして、鬼といえば恐ろしい顔で、赤い皮膚にツノが生えているイメージではないでしょうか。

このイメージは鎌倉から室町時代にかけて確立されていったとされています。

当時は武士の世の中で、鬼というものは権力に従わない反逆者、まつろわぬ民を象徴していたとされていたようです。

権力者にとって鬼は醜くて悪者だという都合のいいイメージ像として今の鬼の姿になっていったと。

そのまつろわぬ者たちの多くが、東北の蝦夷えみし、九州の隼人はやと熊襲くまそとされていたようです。

彼らは縄文人の子孫としてずっと日本列島に住んできた人たちでした。

当時日本列島の中央地で覇権を握っていたヤマト政権。

この政権側の権力者からすれば、自分たちの思い通りにならない彼らを邪悪な存在に仕立て上げることで、征伐する意義を作りたかったのかもしれません。

要するに、「鬼=縄文の血を受け継いだ人々」になっているんじゃないかなと。

しかし、これはあくまで鬼というイメージ像の話。

実際の鬼という言葉の意味としては、最初に話した通りに、目に見えない災厄をもたらすオヌという言葉と同義として捉えても問題ないでしょう。

・・・

そもそも節分の日にやる豆まきってどこで発祥したものなのかなと。

元々大陸では追儺ついなという儀式があって、それも節分というものは正しくいえば立春、立夏、立秋、立冬の4回あるようです。

昔の人たちは、こうした暦の節目とか時間の隙間から悪いものが入ってくると考えていたようで、この節分のタイミングでそうした邪気を払うといった行事を取り入れていたとされています。

しかし、この追儺という儀式は、実際は鬼のような形相をしたお面を被った人が矛や槍を持って大声を発して、目に見えない鬼を撃退するという儀式だったそうです。

画像引用:Wikipediaより
吉田神社追儺 都年中行事画帖(1928年)
- 国際日本文化研究センター所蔵 著・江馬務/画・中島荘陽 (節分)

つまり、今でいう鬼のお面を被った人が、目に見えない鬼(隠)を追い払っているということ。

それがどうしてか、今では鬼のお面を被った人を追い払おうとしているんですよね。

まさに本末転倒。笑

そして、この豆をまくという行為に関しても大陸から入ってきた文化になります。

豆は魔滅まめとも書くように、邪悪なものを追い出す力を持っていたとされているようです。

こうした大陸から入った様々な考えが混ざり混ざって変わり変わって今の節分の豆まきという行事になっていったと。

その上で、やっぱり豆まきって必要なのですかね…。

それに個人的にですが、

「鬼を愛して福を呼ぶ」

「鬼は内、福も内」

鬼こそ大切にすべき存在な氣がしてならないのです。

鬼を払うのではなく、鬼とどううまく付き合っていくか、これからの時代鍵になってくるのではないでしょうか。

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