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(107)あの日から

本日は3月11日。東日本大震災から13年だそうです。

私は宮城県に住んでおります。
震災当時は小学6年生でした。

学校の校庭でお楽しみ会として、2箇所に分かれてキックベースをしており、ちょうど試合が終わって校庭の真ん中に集合したタイミングで大きな揺れが。
みんながその場にしゃがみこんで揺れがおさまるのを待っていました。
しかし、なかなか揺れはおさまらない。
すごい音と揺れが永遠に続き、このまま地球が終わってしまうんじゃないかという感覚になりました。

少しだけ落ち着いて、何故か教室に避難することに。
何で外ではなく教室に戻ったのかは未だよくわかっていませんが、指示を受けたので戻ることにしましたがその間も揺れが続き、歩く→揺れてしゃがむ→歩くを繰り返して教室にたどり着きました。
幸い、耐震工事をして2年の校舎だったため、ほぼ教室に被害はありませんでした。
その後は親のお迎えを待ち、お迎えが来た順に各々帰宅をしました。

我が家に帰ると、家の中は棚が倒れ、皿などが散乱。
下敷きになったテレビがぶっ壊れ。停電に断水。
それでも、避難所で眠りながら、日中は家の中を片付けてを繰り返す日々でした。
避難所にいてもあまり情報が入ってこなかったので、沿岸地域の被災状況も、原発のことも知ったのは数日経ってからでした。
雨が降った時に、雨に濡れたら危ないという情報が広がってその時に原発事故のことを知りました。
無事に家に帰った翌日くらいに電気が復旧した時にはすごく嬉しかったし涙が出ました。
その後私たちは北海道のじいちゃんの家に避難をすることになりました。
交通がなかなか動いていたりいなかったりで情報をあらゆる方法で集めたり、様々な方の協力で、次の日の朝には北海道に入ることが出来ました。
北海道に入った時が1番安心しましたし、北海道の親戚や知り合いの方々はとても心配されてたようで、私たちを見て安心しておりました。

細かく話すともっと大変だったことや、色んな方に助けて貰ったことが沢山あります。
あの頃は毎日を生きるのが精一杯でした。
出来事自体は色々覚えてますが、電気や水の復旧した日や避難した日が何日だったという正確な日にちは覚えていません。
確かにあの時は大変だった。でも周りを見たら私なんて全然だった。
電気が復旧して、テレビで見た沿岸地域の映像を見て言葉を失いました。

当時はスマホもなかったので情報がとにかくありませんでした。
避難所でラジオがついていたみたいですが、ラジオの音がきこえない場所にいたので情報が仕入れられませんでした。
やはり、情報を積極的に取り入れることが大事だなと今となっては思います。
今はスマホがあるので情報が取り入れやすくはなりましたが、デマもあったりするので、パニックな気持にぬのの中でも冷静に情報を見極められるように普段からデマを見破れるように鍛えておかねばと思います。


復旧復興。
まだまだ全てが元に戻ってはいないかもしれませんが、沿岸地域では新たな道の駅など魅力的なスポットがたくさんあります。

道の駅大谷海岸の2階部分から見える景色
道の駅大谷海岸のうにおにぎり
さんさん商店街で食べたもの
道の駅高田松原の震災遺構

もっと沢山のスポットがありますが、すぐに見つけた写真を載せます。
震災について学び、後世に伝える施設もたくさんありますので、皆様ぜひ観光に来ていただき、そして学んでいっていただきたいです。

私もこれからも沢山訪れます。
大好きな場所ですから。

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