なぜ演劇は絶叫するのか

ネットで話題になっていた演劇作品があったので観に行った。のだが、75分間に渡って舞台上の登場人物が説明的で芝居がかったセリフを絶叫しまくっていて、75分間にわたってわたしの生命がえぐられ続けた。

普段演劇はあまり見ない。”芝居がかったセリフを絶叫する”のを聞いて心地良いと思う人はきっとあんまりいないだろう。例えば『信頼していた長女と次女に自分の国を追われた王様。実は自分の理解者であったのは邪険にしていた末娘だった。しかしその末娘も王様の目の前で殺されてしまう。ようやく末娘が愛情をもって自分を救おうとしてくれていたことに気づいた王様が、娘の亡骸を抱きながらその名前を呼ぶ時』など、然るべき時に叫んでもらうのはいいのだが、「コーヒーください」みたいな時でもやたらめったら人間が叫んでいるというイメージがある。おかんに「あんたどこ行くの!」と叫ばれると腹たちませんか。そんな叫んでもらわなくても聞こえてるし。

わたしは映画とゲームが好きだ。映画とゲームの中で、芝居がかったセリフを絶叫し続けるのはバカと狂人だけで、すぐにその人物からはピントが外れる。普段日常生活でわたしたちがそうしているように。

そういう「やたらめったら叫ぶ」演劇がおかしいというのはもう何十年も前から言われていて、平田オリザさんや岡田利規さんが普段どおりの会話をする演劇「現代口語演劇」をやっているのだが、今でもやっぱり人がやたらめったら叫ぶ演劇はなくなっていない。

なぜだ。なぜなんだろう。なぜ芝居がかったセリフを絶叫しなければならないのか。わたしが見たそのお芝居は、役者さんがピンマイクを装着して申し分のない音響でセリフが聞き取れるにもかかわらず、75分間にわたって人間が過剰な感情をほとばしらせながら絶叫し続けていて、さながら絶叫マシンのFUJIYAMAに乗っている人を75分に渡って椅子に座って観賞しているような気分だった。絶叫マシンは自分が乗るのはいいが、乗っている人を見てもあまり興味深いものではない。

わたしはデスメタル音楽もあまり聴かない。デスメタルでは「デス声」と言って、喉を潰すような声を絞り出す歌唱法が取られている。デスメタルはめちゃくちゃかっこいい文化だと思うのだが、その音楽を聴けない理由は演劇と同じ理由で、人が絶叫する声が好きじゃないからだ。人間が絶叫する演劇も好きですよ、という方は、もしかしたらデスメタルも好きかもしれないので試してみてほしい。

でも多分そのお芝居にわたしがノレなかった理由は絶叫だけじゃない。「悲劇の外側にいる人と内側にいる人」を実際の劇場を2つ使って対比するという、旧来の戦争だけでなく津波やテロを経た現代において必見のコンセプトなので観に行ったものの、それらはセリフで簡単に説明されてしまった。最初の15分ぐらいで全てが終わってしまったように感じたからだ。そこに説明的なセリフ以上のものはなく、問題提起すらも全て観客にゆだねられ、あとに残るのはぐじゃぐじゃとした感傷と絶叫のみで、起こる悲劇が何もかも他人事の日本のメディアを含めたメンタリティを表すようで、大変興味深いとは思った。

ところで以前、「ロロ」という劇団の演劇を観に行ったのだが、これは絶叫していても全然気にならなかった。登場人物のテンションが全員高いという設定なので、絶叫している前提で書かれたセリフを叫ばれるとけっこう大丈夫なのだ。セリフにグルーヴがあるし、お祭りが舞台なので、お祭りはテンション高くみんなが叫んでいるものだから、むしろ絶叫が自然で心地よいものになった。そういうふうにしてくれると、絶叫も悪くなかった。

演劇というのは生きている人間が目の前で訴えかける、そのパワーに惹かれてみんな見に行くのだろう。人間が一箇所に集まって、すごい労力をかけてその場だけの舞台を作り出す。それはすさまじいパワーになる。しかもその瞬間はこの世で一回しか起こらない奇跡だ。それを演者もスタッフも観客も同時に体験できる。編集もカメラ割りも出来ないけれど、演劇には演劇にしかできないことがきっとある。だから人は演劇を作り、見に行き続けるのだろう。

一度苦手意識を持ったジャンルを好きになるというのはなかなか大変なことだ。苦手だから知らない、だから何を見て良いのかわからない。わからないから情報もあまりなくたまたま見たものがその人の全てになってしまい、また「やっぱりわからなかった」という感想になってしまってますます苦手になる、というスパイラルに陥る。その逆に、全てを覆すような素晴らしい体験を一度することでそのジャンル全体を好きになれることもある。

この一度しかない人生で、全ては出会いによって出来ている。わたしもいつか演劇を好きになれる日が来ると思う。

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