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持たざる者が持てる者の存在を知った時に感じる劣等感は絶対消えない

クソみたいな田舎で生まれた。宮城県の人口3万人ちょっとしかいない市で、最寄りの信号まで車で15分かかる。周りは一面のクソミドリ、隣の家は遥か彼方にあり、妹は高橋幸宏に憧れてドラムセットを買って叩きまくっても苦情など来ずカラスの鳴き声だけが聞こえるような辺鄙な場所だ。

一番近い都会は仙台で、電車で40分くらいかかる。電車はボックス席で、前にいる人と足が当たる。風に弱く、強風が吹くとすぐ止まる。車窓からはひたすら続く田んぼと、その向こうに太平洋が見える。

父は県職員で、母はモンテッソーリ教育をしている幼稚園教諭だ。「この土地でホワイトカラーの家は珍しい」と後に会った人は言った。

家には山のように本があった。昔はやたらと全集や図鑑が流行っており、親がやたらとそういうのを買うのが好きで、百科事典とか辞書とか日本文学全集とか思想書全集とかクラシック全集とか西洋美術画集とか福音館の絵本100冊セットとかとにかくそういうのがやたらめったら転がっており、家にあるとそういうのを見るもので、最初に中毒になったのは文字だった。そこにある文字は何でも読んだ。百科事典から新聞から味ポンのラベルまでそこにある文字を片っ端から読んだ。だからかなんだか知らないが小学一年生の作文大会で県で賞をもらった。

働き盛りの親は、平日はいつも仕事で忙しく家にいなかった。祖父も会社員だったので家族が揃うのは朝ごはんだけだと言って母は朝からキムチ鍋とかすごく重いものを作った。だから平日にはいつも祖母が面倒を観てくれた。祖母は働き者で畑を耕し庭の草をむしり毎食ご飯を作って子供3人と孫3人を育て上げた。

住んでいるところはまあとにかくクソ田舎なので日能研とかはない。頭が良かろうが悪かろうが習い事はチャレンジと書道とそろばんとヤマハしかない。通っていた書道は清書のときにもらえるたいやきが目当てだったのですぐにやめたし、エレクトーンは心の底から大っきらいで「このレッスンをいかに先生に怒られずにやりすごすか」だけを考えていたために、10年間続けたのにも関わらず1曲も弾けない。

親は夜遅くにならないと帰ってこないので、ずっとビデオゲームをしていた。祖母はテレビを観ているのかゲームをやっているのかもわからないくらいの機械音痴なので一日12時間ドラクエをやっていてもなんにも言われないような環境だったため、朝5時に起きてメガドライブをやったりしていた。

そんなクソ田舎だったため、カルチャー好きの友人なんかいなかった。深夜テレビや深夜ラジオや雑誌だけが東京に繋がる窓だった。テレビやラジオや雑誌が東京の、海の向こうの文化を教えてくれた。

仙台の大学に進学すると、やっと音楽や映画の話ができる友人ができた。私がいたのはほぼ花嫁学校みたいな女子大だったため、他の大学の人たちと交流するようになってから、その人たちにたくさんのことを教えてもらった。

東京に来たのは大学の卒業後だ。レコード屋でバイトしながらWEBデザインとかAdobe製品の使い方を覚えた。六本木の深夜まで営業している青山ブックセンターというところで働いたのだが、そこは社員9割バイト1割という今では考えられないくらい専門的な人たちのいるところで、現代美術、文学、写真、建築、経済、哲学とかものすごく幅広いことを教えてもらえる大学みたいだった。今知っているいろんなことはだいたい青山ブックセンターで教えてもらった。

今、私はそのど田舎に帰省中だ。今日、久しぶりに仙台から40分かかる電車に乗った。ボックス席は今も狭い。向かいの席では女子大生がキャッキャ言いながらスマホをいじっている。隣にはAPCのトートバッグを持ってデニムのロングコートを着て丸メガネをかけた文化系男子が座り、私より先(つまりより都会の駅)で降りていった。わたしも今この地にいたら彼の様になっていたのだろうなと思った。

東京にいると、すごく文化的素養に恵まれた人に会う。彼ら・彼女らは幼い頃から浴びるように文化に浸り、親族から教養を叩き込まれる。そういう人たちのことが私は羨ましくてたまらない。親が作家の人もいれば、ミュージシャンの人、建築家の人、写真家の人、いわゆる文化人の家に生まれて親たちとカルチャーの話ができたらどんなに幸せなんだろうかと思う。もちろんそれがプレッシャーになる人もいるし、そういう家庭ばかりではないのは知っているのだが、持っていない者が持っている者を見ると羨望が渇望になってくる。単なる嫉妬だ。しかし嫉妬ほど厄介なものはない。

私が生まれたところには何もない。一面のクソミドリに囲まれ、親族や近所(そもそも近所がないんだよ)など親しい人が教養高いことを教えてくれる環境はなかった。仙台も東京もNYもロンドンもLAもクソみたいに遠く、ただテレビを眺める両親の横でカエルの大合唱を聞きながら三食飯を食って寝るとまた朝が来る。一生その繰り返しだ。

改めて自分の手のひらの上を見てみると私の手の上には何もない。私は教養もなければプログラムもできないし絵も描けないしCGもできないし機械学習もできないし英語もろくにできないしなんにもできない。こんな愚痴書いてるヒマがあったら勉強しろよだからお前はできねーんだよと今もうひとりの私が責めているので許してください。一生勉強するしかない。

独身でパートナーもおらず、ただずるずると東京の賃貸のマンションで一人暮らしている。友人たちは当たり前のように結婚しており、こどももいたりして、その様子を見るたびに、その話を聞くたびに、私は勝手に疎外感を覚える。つまり、自分ごととして語れる誰かの存在を持っている。私にはそういう存在がいない。この疎外感は時が経つにつれて子泣き爺のようにだんだんと重みを増してのしかかってくる。誰もがうまくいっているわけではないのは知っているし、パートナーがいれば何もかもうまくいくというわけではないのは知っている。でもこの疎外感はどうしようもない。そして頭をよぎるのは

この先、私が誰かを好きになったとして、その人が私を好きになることはないのだろう

ということだ。この呪いはパートナーがいる人を見るたびに思うし、年々その感覚は確信になってくる。

東京に来たのは、ちょっと寄り道をするような感覚でだった。ちょっと暮らして気が済んだら田舎に帰るんだろうなと思った。今思うと、きっともう田舎に帰って暮らすことを選ぶことはないだろう。

私はずっと都会にいて、手のひらの上になにもないまま、よければ畳か布団かなんか、悪ければドブだか道だかなんかの上で一人で死んでいく。それはまあどうでもいいのだが、この自分をでかくて重苦しい鎖で縛り付けている疎外感というやつは死ぬまで消えない。ドブかなんかで死ぬまで消えない。死んでも消えない可能性すらある。一人でいるのを愉しめばいいという人もいるだろうし、言いたくなる気持ちもわかる。でもそうじゃないんだ。

持たざる者が持てる者の存在を知った時に感じる劣等感

というやつに尽きるのだと思う。生きているだけでコンプレックスを感じる。私は容姿も頭も良くはない上にさらにこんなコンプレックスまで抱えて大変そうなので捨ててしまえばいいのだが、何度も繰り返すように

持たざる者が持てる者の存在を知った時に感じる劣等感は絶対消えない

のである。まあそういうことを、田園を走る列車の中から沈みかける夕陽を眺めながら今日は考えた。以上です。

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