相手に自分を傷つけさせるまでに誰かを深く愛すること

アメリカの作家、トルーマン・カポーティの『誕生日の子どもたち』、村上春樹訳を読んでいたところ、表題の『誕生日の子どもたち』という短編のなかに、心に深く突き刺さる一文があった。

この短編の舞台はアメリカの貧しい南部の田舎町。そこに、10歳にして完璧にレディの素養を兼ね備えている美しい少女、ミス・ボビットが引っ越してくる。田舎の素朴な少年たちは、ミス・ボビットに熱を上げる。そんな中でも、暴れん坊で知られるビリー・ボブのミス・ボビットへの気持ちの入れ込みようは群を抜いていた。ミス・ボビットはまったく彼に関心をもたなかったが、暴れん坊の彼もミス・ボビットにだけは従順で、彼女の願いなら何でも叶えてやりたいと力を尽くすのだった。

ビリー・ボブにとって、彼女は普通の存在ではなかったからだ。どう普通じゃないのか?十三歳の少年がただ身も世もなく恋をしていたというだけじゃない、ということだ。彼女は彼の中にある「奇矯なるもの」だった。それは彼にとってのピーカンの木であり、読書を好むことであり、相手に自分を傷つけさせるまでに誰かを深く愛することだった。

「相手に自分を傷つけさせるまでに誰かを深く愛すること」。普段わたしたちはたくさんの人に会うが、その誰もに心を許すわけではない。心から愛する人というのは(多くの場合)たった一人だけだ。誰かを愛するということはその人に心を開くということ。心を開くというのはまるで胸を切り開いて相手に見せるというようなことで、そうするとやわらかい肉がむき出しになってしまうので、ほんの少しのことでもやわらかい肉は傷つけられてしまう。そのむきだしになった肉はあまりにも傷つきやすすぎて、壊れやすすぎる。「恋に落ちるのは愚か者だけ」という言葉のように、人を愛することは弱みを見せることでもある。

心を閉ざして自分を硬い皮で守っていれば、傷つくことはないけれど、人を愛することはできない。誰かを愛するのは、自分を切り開いてその傷口を見せることだ。そこには虚勢も建前もなく、本当のその人自身がある。人を愛すると、その人自身の本当の姿が現れる。それはとても恐ろしいことだけど、愛する人が現れると怖いなんて言ってられない。勝手に胸が開かれ、やわらかい肉が露わになってしまう。そして、そこに傷を付けられるのを許してしまう。

わたしはカポーティが大好きだ。あまりにも有名な『ティファニーで朝食を』や、社交界が大好きで派手好きだった露悪的な人間性のほうで語られがちだけど、本当の彼は自然と素朴な人を愛する、感受性が豊かすぎる優しい人だった。彼の作品には人間性の奥深くをえぐる鋭さがあって、文章を読んでいるとうっとりしてしまう。

例えば『ティファニーで朝食を』の主人公は、ど田舎出身の奔放な娘、ホリー。彼女は一見脳天気に暮らしているけれど、彼女にも「いやな赤」(不安)が襲ってくることがある。そんなとき、彼女はティファニーに行く。そこの立派な洋服を来た親切なひとたちや、銀とワニ革の財布の気持ちのいいにおいをかいでいると、悪いことなどなにも起こらないのだ、と安心できる。でも、いつかそんなティファニーにいるような気持ちにしてくれる「ホンモノの生活」が出来る場所に住んで、またティファニーで朝食を食べるような身分になったとしても、「自分らしさ」は失いたくないんだ、と彼女は言うのである。

そして、カポーティの心の一番奥深くにある「クリスマスの思い出」。カポーティが幼いころ面倒を見てくれた、老婆の親友の「バディ」との思い出を描いた作品だ。鮮やかな記憶力で描き出されたアメリカ南部のクリスマス。卓越した文章で、こんなにすごい文章が書ける人がいるなんて、と読むたびに震えが来る。青空文庫で読むことができるので、ぜひ読んでみてください。

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