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ケンタッキー

実家はものすごい田舎で、いちばん近くの信号が車で15分ぐらいかかる。周りには田んぼと山しかない。

あるクリスマス、わたしは「ケンタッキーのチキンが食べたい!!」とわめいた。多分テレビで見たのだ。「クリスマスが今年もやってくる」と竹内まりやが歌い、三角の帽子をかぶったこどもたちが、ろうそくの明かりのもとにチキンを頬張るCMを。ああ、あのふくよかな形の見たこともないチキンは、いったいどんな味がするのだろう。

すると父が車で30分はかかるところにあるケンタッキーに行ってチキンのセットを買ってきてくれた。うちの父は際限なく優しい人なのである。ああ、そこにあるのは、やっと手に入れた、夢にまで見たケンタッキーのチキン!!!おじさんの顔が書いてある、生まれて初めて見る容器に入っているのも非日常感を高めた。

ものすごくうれしかった。この不思議なかたちの茶色い揚げ物。これは特別なものだ。神聖な夜に取っておかなくてはならない。わたしはそのチキンの味見をすることもなく、引き戸の戸棚にうやうやしくしまった。夜に食べるのが楽しみで仕方なかった。

そして夜になり、戸棚を開けると、閉まっていたはずの箱が空いていた。

猫が箱のなかのチキンを食べてしまっていたのだ。箱のなかには、かじられて無残にも骨となったチキンの残骸だけがあった。全部食べられるとは思えないから、どこか地面に掘っておいてしまったのかも。

というのも、わたしはなぜか、下のほうにある戸棚にチキンを入れてしまった。上の戸棚だったら、猫の手が及ばなかったかもしれないのに。わたしの戸棚の締め方が甘かったのかもしれないし、もしくは、猫がいままでにない美味しそうな匂いに惹かれて、戸棚をものすごく器用に開けたのかもしれない。

とにかくチキンはめちゃくちゃに損なわれ、お祭りムードは一転してお葬式のようになった。

わたしはものすごく悲しかったしがっかりした。落胆とはこういうものかと思った。しかし猫を責めても「ニャーン」というばかり。車を飛ばしてわざわざチキンを買ってきた父にとっても、わたしの粗忽のために一世一代の見せ場が台無しになってしまった。

まあそういうことで、その後しばらくわたしがケンタッキーの味を知ることはなかった。CMを見てはその味を想像するばかりであった。

いま大人になって、外国人に「日本ではクリスマスに家族揃ってケンタッキーを食べるんだよ。買うのに行列をするんだ」と言うと「マジかよ!!!!オーマイガー!!!は?!なんで?!全然意味分かんないんだけど?!」とパニックになってくれる。

その反応を見るたび、わたしはチキンを食べそこねたクリスマスと、寒い宮城の冬の夜を思い出す。

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