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また乗れなかった。映画『君の名前で僕を呼んで』

世界各地の映画賞を多数受賞、アカデミー賞4部門にノミネートされた映画『君の名前で僕を呼んで』。舞台は1983年夏、北イタリアの避暑地。家族と夏を過ごす17歳のエリオが、大学教授の父が招いたアメリカ人の24歳の大学院生オリヴァーと出会い、恋をする一夏の物語...というお話ですが、どの感想を見ても大絶賛の嵐!監督はこの作品で一躍名を高めたルカ・グァダニーノ。原作あり。脚本は『眺めのいい部屋』や『モーリス』、『日の名残り』を監督した89歳のジェームズ・アイヴォリーが手がける。

2018年はとにかく話題になったこの映画。ロッテン・トマトでは批評家からの評価が95%!

でもなんか、嫌な予感があった。あらすじも知らず、予告編すら見ていなかったが、なんだか胸騒ぎがした。

いつものみんな好きなやつに乗れないやつだ

という思いである。わたしは「君の名は」にも「ラ・ラ・ランド」にも乗れなかった人間だ。「ボヘミアン・ラプソディ」にはすごく乗れたが、「君の名前で僕を呼んで」は「なんだかいけすかねえ」という妙な予感があった。

でも、見てないのに文句は言えない。2019年を迎え、昨年の澱を落とすべく、「やあやあ!『君の名前で僕を呼んで』をボロクソに言ってやるぞ!」と思い、amazonでレンタルして見始めた。

ところが!

始まってみると、これが素敵な映画なのよね〜!!北イタリアの夏のきらめく日差しが画面からほとばしっていて、眺めているだけで浄化されそう。描かれるのも自転車で近所を走って、豆を剥いているおばさんに「すみません、お水をください」と頼んで水を飲み干す、とかそれはそれはシンプルな日常な出来事が美しい映像で描かれます。カメラワークもいやらしくなく凝っていて刺激的。とりあえず、イタリアの光だけでまずは1000点獲得です!!!

この映画を見て思い出したのは、エリック・ロメール。彼が墓から蘇ってnetflixから予算をもらって、HD画像でイタリアで撮ったみたいな映画だった。

でも一瞬ちょっとひっかかったところがあった。音楽担当のスフィアン・スティーヴンス(アメリカのシンガーソングライター)が、坂本龍一のM.A.Y. in the Backyardを挿入歌として使う。この曲は大好きだからうれしかったんだけど、スフィアンはシンガーソングライターだから、こういうシンボリックな曲を劇中で使うとどうしてもDJ風味が出てしまうのだ。主人公が弾いているという設定ならよかったけど、83年にはまだこの曲はなかったのでありえない話。ここでキョージュの曲を持ってくるのでは、スフィアンはジョニー・グリーンウッドにはなれないなと余計な心配をした。

もう見てられない

それから映画の半分くらいまでは、順調に楽しくみていた。しかし映画の中盤、あるダイナミックな展開が起こる。ここでわたしは苦しくなって画面を止めてしまった。

その展開によって、いままで描かれてきたたまらなく美しいイタリアの風景が、まるで書き割りのように見えてきてしまった。あの二人がああなる必然性がどこにあるのか、疑問を感じてしまったのだ。それまで、二人が「異性とどれだけうまくやっているか」という関係をちらつかされたりしてきたので、とにかく混乱した。二人は最初から惹かれ合っていたそうだが、それなら最初から二人だけの関係にすればよいのではないのか。「愛してくれる女性がいても男性に惹かれてしまう」ということが言いたいのかもしれないが。

もうあとは、なだれこむようにセクシャルなシーンの応酬だ。監督の演出が上手なので目を塞ぎたくなるほどのセクシャルぶりである。『ヴェニスに死す』の悲劇性とか、『ブロークバック・マウンテン』の必然性とか、『キャロル』の上品さとか、ウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』の激しい情熱とか、そういうものとはかけはなれてとにかく生々しい。

そしていったんそういう展開になったあとは、ただ「あのシチュエーションであのカップルを描きたい」がためにこの映画全部が作られたような感じを受けて、興を削がれてしまった。さっき「ロメール的だった」と書いたけど、ロメールであれば繊細な伏線がそのまま展開されるのに、この映画ではクレヨンで書いたような乱暴な伏線が、別に書かれていた繊細な伏線を塗りつぶしていく。セクシャルな欲望というクレヨンの伏線で。

「あのシチュエーションであのカップルを描きたい」というのは、映画というよりもラノベとかポルノ的な感触になる。そこがつらかった。監督は60年代の名画を思わせるほど大変腕利きだ。本質的に「切ない」物語を描きたいのはわかるが、その「切なさ」に至るために用意されたシチュエーションに乗れなかった(これは君の名はでもラ・ラ・ランドでも同じ)ので拒否反応が出てしまった。シチュエーションの設定が完璧だっただけに、すごく残念だった。

わたしが受けた「なんかこの映画違う...」という印象は、間違いではなかったことが最後の父の言葉でわかる。父の言葉は「感動的だ」と見たほとんどの人が言っているが、わたしには「乗れない理由」の決定打になった。つまり、みんな同類で、男性を愛しているけど、時代が時代だから、みんなクローゼットの中にいて、そこから出ることはできない。だから仕方なく、「普通の人生」を歩むために女という道具を利用するのだという告白でしかなかった。そのすさまじい「ホモ・ソーシャル感」にげっそりした。

この映画では実際に女性の内面がまったく描かれず、男性に利用されるお人形さんとしてその場にいるだけだ。そういうことならそれでいいんだけど、画面に写っているのは「どうしようもなく誰かに惹かれてしまうこと」「人を愛する切なさ」「青春のきらめき」というスタンプラリーのようだった。それならいっそのこと出演者を男性だけにすればよかったのではないでしょうか。それなら多分乗れた。

ということで、総合的な感想は「あのカルト映画『モーリス』(わりと凡作だがニッチなのでいまも生き延びている)を書いた89歳のじいさんのホモ・ソーシャルすぎる脚本を、ロメールを思わせるほど気鋭の演出力を持つ監督(スフィアン・スティーブンスを劇伴に採用するくらい現代的なセンスを持つ。ただしスフィアンの劇伴作家としての力量は疑問)が映画化した、イタリアの風景がきれいな映画」でした。60年代〜70年代風の現代映画ということからして、キュアロン監督の「ROMA」(5億点)を見たあとだと、さらにアラが目立ってしまう..見比べてみるの、おすすめです。

また乗れなかった映画が増えてしまった..


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