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地球の馴染み方

まあそれにしても、つくづく地球に馴染めなかったなと思う。

こどもの頃からずっと、どこにいても、自分がよそ者のような気がしていた。魚が間違って陸に上がってしまったような違和感があった。家族も親戚も友達も優しく、たくさんの愛を注いでくれたけど、ここは自分の居場所ではないような気がずっとしていた。

大人になって、どこにでも行けるようになったわたしはどこにでも行った。外国にも行って、いろいろな仕事をして、たくさんの人に会った。きっと自分の居場所が見つけられるだろうと期待に胸をふくらませて。

それでもやっぱり、どこにも安住の地を見つけることはできなかった。どこの国でも、道を歩く人はみんな楽しそうに誰かと笑っていて、きれいな服やおいしい食べ物や大きな家や有名な人に一喜一憂したりしている。その一喜一憂が活力になり、明日や明後日、来年や再来年を生きていく糧になる。大人になるということは、そのゲームにのるということだった。わたしには、それができなかった。意識的に「のらないぜ」ということではなく、現状のれていないので、結果的にのれなかったということだ。

年を重ねれば、この違和感はまるで蒙古斑のように消えてなくなるものだと思っていた。大人になれば、強い人間になって、この寂しい気持ちがなくなるのだと。

だがその違和感は年を増すにつれてさらに存在感と質量を増すばかりだった。いまや消えてなくなるなんて期待を微塵も抱かせないほど圧倒的に。結局わたしが長い時間をかけてわかったのは、このうすら寒い違和感に「孤独」という名前があるということだけだった。

孤独はなくならない。場所の問題じゃない。地球の裏に行っても、そこでもまたわたしはきっと同じ気持ちになる。だいたいこの地球は同じような仕組みで出来ている。親から子が生まれ、伴侶をとり、老いて死ぬ。話している言葉が違うだけで、どこの国の映画を見ても、妻は夫の不貞に悩み、こどもが大学に行けば喜び、人が死ねば泣いている。笑いかけられればうれしいし、睨まれればいやなきもちになる。なぜまったく違う文化なのに、殴られて喜ぶ人は存在しないのだろう。同じ理由で、他の星に行ってもきっと同じである。

世界を見れば、あまりにも野蛮なのに涙が出てくる。人々はまったく理由もなく争いばかりしていて、ろくな理由もなくたくさんの人を殺す。自分がすこしだけ上に行くためにひとをおとしめる。ただ立っているだけで、日々深い傷が刻まれていくような気持ちになる。傷つくのである。ただ生きているだけで、ほんとうに傷つく。自分の身体がずたずたになるような気持ちになる。世界が強いというよりも、わたしの3次元的な精神と肉体がこの世界ではあまりにも弱い耐性で生まれてきてしまったということだ。スペランカーという例えが足りなければ、皮膚が一枚足りなくて、風が吹いただけでヒーヒー言っているような過敏さである。

だが長く生きているうちに、この孤独を癒やす唯一のものが何かがわかってきた。それは「愛」と呼ばれている。しかしそれを受け取るには受容性というものが必要だった。愛をくれる相手に感謝する謙虚さと、自分のこころをひらくだけの勇気、そして受容するだけの大きなうつわを胸のうちに持つものだけが、愛を受け取り、この世界に馴染むことができるのだ。

これまでのわたしはあまりにも身勝手で、誰かにそれを差し出されてもまったく意に介さなかった。すると差し出された愛は手の上をすべりおち、地に染みていくばかり。それなのに自分のふるまいを顧みず、ひとりで痛い痛いと泣いているのである。

地球の馴染み方のガイドブックはまだamazonには売っていない。空を見上げても帰る星はない。それでもまだ、わたしは生きている。いつか地球の馴染み方を取得し、愛と平和に満ちた世界を受容することができたなら、いつかガイドブックにまとめて、宇宙のamazonで売りたいと思う。

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