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理系がどんなにスゴいのかを世界が知った金字塔「火星の人」

先日見た映画「オデッセイ」は原作「火星の人」のよくできたダイジェスト版であった。予告版みたいな感じ。映画が気に入った人は、原作を是非!5万倍ぐらい面白い。

原作は最高だ。かつてロビンソン・クルーソーは無人島に取り残されて、いろいろ工夫をして生き残った。この作品ではその現代版といったていで、火星に取り残されたマーク・ウィトニーという植物学者でエンジニアの白人男性が、NASAの最高頭脳とともに、いろいろな工夫をして生き残りをはかる。なくなってしまう食料はどうすればいい?地球とどうやって交信すればいい?などなど、最初は絶対に超えられないと思う難題を、ひとつひとつ解決していくのだ。その様子は「鉄腕ダッシュ」にも例えられた。

作者はアメリカのアンディ・ウィアーさん。彼はなんとコンピューター・プログラマで、これが初めての小説。2009年に自身のサイトで発表して、読者のススメでkindleで99セントで販売し、その後話題となり大手出版社より書籍化。それがリドリー・スコットの目に止まって映画化、ということだそうだ。

この小説が胸を打つのは、生き残るために積み重ねるディテールがハンパないということだ。そのディテールというのは、理系的思考で出来ている。

わたしがここで言う理系っていうのは、この宇宙というものには「原因があるから結果がある」ってことを知っていて、そのルールに抗わず、突きつめる人のことである。

ちなみにわたしは筋金入りの文系で、理系のことはまったくわからない。どういうことかっていうと、わたしは例えば目的地があったときに、そこに至るまでにこれは「面倒くさい」から「なんか端折れるんじゃないの」「なんか迂回できんじゃないの」と思う人間だということである。で、その面倒くさいから端折った時間を、ぼんやりするために使っている、つまり世界のシステムを舐めてかかってるってことだ。

理系の世界はそうじゃない。プログラムは一文字でも違えば動かない。ドローンは落ちて人を傷つける。でもそこには必ず原因がある。1と2を足せば3になって、そこに100をかけると300になる。もし1000が必要なのだったら、ここにある1と2を足して、ええとそこからここに過去にあれだったというデータがあるから、これをこうすればそうなるはず。一回やってみて、検証して認識を変えて「実現」するまでやってみよう。それが理系的思考である。

しかし文系の人は「データとデータの相関には計算できないファクターがある」と前提している。予測できないことがあるし、ルールを飛び越してみても最終的にはどうにかなるのではないかと思う。でもごめん、それはどうにもならない。物資には限りがあるし、惑星には重力がある。

マーク・ウィトニーは、周りにある現実を一つづつ手のひらのうえに乗せて眺めては、これこれこういう現状があって、それにこういう結果を求めるならば、ええとこれをこうすれば、実現できる。みたいなことを根気強くやっていく。そして「現実」を変えた。

いわゆる研究者的思考というのは、これまで論文などで発表されていた。なのでそのすごさというのは全然一般市民にはよくわからなかった。「なんか難しいことが好きな人が勝手に難しいことやってんな」みたいな感じで、その結果文明の進化というものが得られたというのに、一般市民はそれをただ享受し、とくに有り難みを感じることもなく暮らしている。我々が彼らに与えた称号といえば「みんなチェックのシャツ着てるけどなんなの」くらいである。原作にも出てくる。「あなたたち、高校時代にエッチしたことないんでしょ」なんて。

「火星の人」では、理系の人々のリアルな生態を、エンターテインメントに描き上げ、理系でない人たちにそのスゴさを伝えた。アインシュタインとか、そういうこれまでの偉人をも含めたがいかにすごかったのかがようやくわかった。その点で、この小説はノーベル化学賞的な殿堂に間違いなく入れるべきだ。

世界のルールに一文字でも違ってしまえば「動かない」ということを知っているコンピューター・プログラマであるアンディ・ウィアーさんは、「理系的思考」が現実に及ぼす力を知るそのいっぽうで、文系の人が持つ「豊か」な世界をも知っていた。

だから一般の人にも見てもらうために、ユーモアという武器をもって伝えた力量があった。一般の人が持つ「ぼんやり」という時間は、理系の人が現実に及ぼす途方も無い力のそのいっぽうで、それとは違ったすさまじい力を持つのである。現実の重力や、ルールをも覆す力が。

だがいままではその両者の拮抗というものが分断化されていたので、両者にはお互いの姿がよくわからなかった。そこでアンディさんは人間の誰もが持つちからである「ユーモア」を加えて、その両者に橋渡しをしてのけた。一般人には見向きもされなかった理系的思考のスゴさを、よくわかるようなかたちにして差し出したのである。

とは言えその5万倍くらいの情報量を、たった2時間半の映像に破綻なく収めたのはさすが名匠リドリー・スコット。だが彼は破綻ない2時間半に気を配るあまりに、ただ出来事がなし崩し的に起こっていくだけで、作品的には人間臭さというか、人間の無限の可能性を描くダイナミズムにはいささか欠けるところがあった。

リドリー・スコットは、ノーランやキュアロンらが執拗に描こうとした、宇宙という空間において表出する地球という惑星の人間という生物の本質にはあまり興味がないように感じた。もしくは、原作に対するリスペクトが強すぎた。アカデミー賞を一つも取れなかったのは故がないことではないと思う。アカデミー賞はなんだかんだ言ってそういうところを良く見ているし、わたしも映画にはそれを求めているきらいがあるのでアカデミー賞にはシンパシーを抱いている。それがアメリカの白人男性だらけの意見であったとしても。

というかそもそも「火星の人」は気が遠くなるような時間において積み重なるディテールを堪能する話なので、映像化においては映画は向かないメディアだ。最低でも3部作にするとか(「ロード・オブ・ザ・リング」みたいに)、もしくはテレビドラマが一番向いていると思う。テレビドラマでやってくれたらめっちゃくちゃ最高だと思う!アメリカに超期待。



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