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鼻毛

何年か前、男子1名と女子1名の3人で飲みに行った。我々は新宿のがやがやした居酒屋に入り、安いつまみを肴に愚にもつかない話をゲラゲラとしていた。ワインは絶対次の日に二日酔いになってしまうようなひどい味のシロモノで、それでも3人が飲む手を止めることはなかった。楽しい仲間と止まらないお酒。いわゆる至福の時間である。安い赤ワインのボトルが一瓶空いた頃、女子が男子に向かって言った。

「あんた!いっつも鼻毛出てるのよ!ちゃんとカットしなさいよ!」

と。

突然そんなことを言われた男子は、顔色一つ変えず

「分かってるよ」

と女子に向かって平然と返し、

そして、

「でもさいとうさんには見えてないから」

とはっきりと言った。断言した。

勝手にそんなこと言って、わかんないじゃん、

と女子は言ったが、まったく彼の言う通りで、実際に、わたしは、その男子の鼻毛が出ているところを見たことがなかった。

というか、見えていなかった。

わたしには彼の鼻毛が見えていない。それがわかってる男子もすごいし、見えてない私も私である。そして、そういう関係性を誰かと築けていることに超笑ったし、うっすら感動すらした。


そして月日は流れて数年後。


またその男子と飲む機会があった。


偶然隣に座ったわたしは、はっきりと見たのだ。


思いっきり出ている、その鼻毛を。


鼻毛はくっきりとそこにあった。数年前のわたしには、これが見えていなかったということに驚いた。いまわたしが彼の鼻毛を見えるようになったのは、単にわたしが人の顔をあんまり見ないからというだけではなくて、その男子と私の関係性が変わったということなんだろう。

人間の関係性ってすごく面白いなと思った。


昔は見えていなかった鼻毛が、いまでははっきりと見える。よく晴れた雲ひとつない日に、東海道新幹線のE席の窓から見える富士山くらいにはっきりと。サンタモニカの浜辺にそびえ立つヤシの木のように伸びやかに堂々と。

紛れもなく、疑いようもなく、それはそこにあった。

でもわたしは彼に、「鼻毛出てるよwww」とは伝えなかった。

関係性が変わって、視点が変わった。見えるものが変わった。

それを帰りに一人で夜の道を歩きながら、ひっそりと、噛み締めたかったのだ。

変わったものと、変わらないものを。

次に会ったとき、私は彼に「鼻毛出てるよwwww」と伝えるのだろうか?それとも次に会った時にはまた、見えなくなっていたりするのだろうか。

それはその時になるまで、わからない。

わたしはきっと生涯忘れることはないだろう。新宿三丁目の安い居酒屋で飲んだ赤ワインの味と大笑いした時間、誰かを心から信頼するということの素晴らしさを。

そして過ぎる時間が、押し寄せる潮のように、並んで走っていたはずの2つの船を少しづつ離れ離れにしていくということを。

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