忙しさの正体

母親が仕事関係のイベントで上京してくると連絡があった。「忙しいだろうから時間があったら会いましょう」という携帯メールだった。それを見てなんだかすごく申し訳ない気分になって傷ついた気持ちがした。

つまり私がいつも別の用事にかまけて家族のために時間を取っていないということを、その何十年にもわたる怠慢を、目の前に突き付けられた気がしたのだ。たしかに物心ついてから勝手なことばかりして、全然家族のほうに向いてない。あれに行くからこれに行くから時間がないとひたすら回避するだけで、家族のために時間を作ることをしてこなかった。いった母親に会うための時間もとれないくらいの「忙しい」とはどんなものなのか。世界を終焉から救う巨大な使命をわたしが背負っているわけでもないのに。もし仮に世界を終焉から救う巨大な使命を背負っているとしても、母親に会いたいなら会いにいけばいいんだし。

「忙しい」とはなんだろう。心を亡くすと書いて「忙しい」と言ったりするけど、その正体についてはあんまり考えたことがなかった。

「忙しい」とは、違うものに気を取られることだ。そしてだいたいの場合、なにか選択の余地がない要求をされている場合を除き、「忙しさ」のもとになるものごとは、自分自身で優先順位をつけて選択している。優先順位というと人聞きが悪いけれど、損得だけじゃなくて、理屈では説明できない「やらなくてはいけないこと」とか、社会に対する責任とか、使命とか、そういうことも含まれている。「選択の余地がない」というのも結局は自分で判断していることだ。その判断の基準が狂ってしまうのがいわゆる「洗脳」である。あと恋愛とか。

忙しさとは、たくさんの人の命を奪う濁流のように押し寄せ、ただ翻弄されるしかないという脅威ではない。多くの場合。「忙しさ」を構成する要素を見直して「これは本当に必要なのか?」と断捨離していけば、「忙しいから」実現できないことなど存在しないんじゃないだろうか。

でもたくさんのことがあって、たくさんの人がいて、時間は全然ないし、そうやって翻弄される気分になるうちに、大切な人のことすらも見失ってしまうことがある。自分を大切にしてくれる人たちがいて、自分のことをどんなに想ってくれているのかが見えなくなってしまうことがある。そうすると、その人が苦しんでいたり大変な思いをしているときに、手を差し伸べることができなくなったりしてしまう。その原因が「忙しさ」だとしたら、こんなにサイアクなことはない。

そうならないように(もうそうなってるかもしれないけど)、これからは忙しさというまぼろしに翻弄されることなく、自分の大切な人たちを大切にしていきたいと思っている。

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