Truth Study Centre

かつてわたしたちは生きているだけで弾けるような幸福を味わっていたはずなのだが、いつのまにかその感覚をなくしてしまった。自分は無価値な存在で、労働する日々は憂鬱。日曜の次には月曜が来る。幸福は常に隣の芝生にあって、どれだけ手を伸ばしても絶対に届かない。そんな感じで、まるで手に持っていたはずのカーディガンをいつのまにかなくしてしまうように、幸福感を見失ってしまった。それをどこで落としたのかもわからない。

幼い頃は見るもの全てが自分の味方で、世界はふかふかのおふとんみたいだった。いったいいつから世界は基本的に敵ばかりで、身構えて闘争しなくてはならないと思うようになってしまったのだろうか。

かつて世界はバラ色であらゆる可能性に満ちていた。前も見ないで、全速力で走っても良かった。降りられるかもわからないのに、木に登ってもよかった。必ず誰かが手を差し伸べてくれるからだ。いったいいつから、世界に対する信頼を失ってしまったのか。自分が行き詰まっても誰も助けてはくれないから、ほどほどに手加減をして生きていこうと思うようになったのだろう。

もし「あの時、あの崖で幸福感を手放したのだ」とわかっているのなら、その崖の下に行って拾えばいい。しかし我々の何十年にも渡る過去のなかのどこかでうっかり手を離してしまって、その記憶もないのであれば探しにいきようがない。

でも、機構的に、かつて空が飛べたのならば、また空が飛べるはずだ。忘れてしまっただけで、その方法を思い出したらきっと飛べる。こどもの頃のように、ありのままの世界を信頼して、毎日が幸福と希望に満ちあふれることがきっと出来るはずなのだ。

いまは全くその方法が皆目検討もつかないけれど、目的地がわかったのならきっとそこに辿り着ける。Googlemapみたいに、目的地を入力することができれば、かならずそこに至る経路がある。

なので、これからその幸福感をこの手に取り戻すために、経路を探索していこうと思う。その経路探索にはいろいろなものが必要になる。文学だとか、絵とか、音楽とか、芸術とかそういうものが。なので、その経路を探す研究を「Truth Study Centre」として記録していこうと思う。

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