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町山さんのこと

セッションという映画を見た。友人が「町山さんの映画評が嫌いだ」と言っていて驚いた。わたしは昔から町山さんの映画評が大好きで、だいたいあれを嫌いになりようがないじゃない、と思っていたからだ。でもその友人が言うには、

「町山さんの映画評は"正しい"。正しいが故に、他の解釈を許さない。いま日本の映画評は、町山さんの以外の見解が存在しないようになっている。それは映画にとってもすごく良くないし、あまりにも気詰まりだ。菊地さんはその状況の突破口を開いたんだと思う」

ということだった。なるほどなあ。

菊地さんとのやりとりで、町山さんがマジョリティだと言われているのが全然ピンと来なかった。「映画秘宝」節というのは永遠にマイノリティだと思っていたから。だが、町山さんの意見はいつのまにかメインストリームになっていたのだ。全然気が付かなかった。

従来の「映画評論家」の文章と比べて、宝島社から「映画秘宝」を経てアメリカでフリーという一貫してサブカルのライターとして経歴を積んだ町山さんの文章はとにかくわかりやすい。そして映画の題材を丹念に調べ、脚本家、監督、俳優にインタビューし、映画の「正解」を導き出す。その映画評はネットに乗ってどこまでも広がり、観客は答え合わせのようにその「正解」を参照する。

町山さん以前、評論家が語る映画というのは基本的に「何いってんだかわかんない」か、そもそも「何いってんのか聞く気もしない」ものだった。映画を学ぼうという意思のある人以外には。だから本気で映画を考える人以外は評論を読まなかったし、評論家や批評家によるクリティックは多様な解釈と議論を導くものとして書かれていた。

そこに一般人でも、映画を大きな枠で捉えて「解釈する」事ができるという楽しみ方を教えてくれたのが町山さんや柳下毅一郎さんたちだったんじゃないだろうか。日本では知られていないけど、アメリカでかつてこういう事件があった、それを題材にしてこういう脚本が作られ、こんなバックグラウンドがある監督が撮った映画にはこういう描写がある、それはアメリカ人のこういう心境を表している。それまで一般人が「面白い」か「面白くない」かしか言えなかった映画というものを、いくらかでも意見が言えるようになれる梯子を用意してくれた。

町山さんが用意しているものは一貫して角に置かれている梯子であって、それをきっかけに見る人がいろいろなことを感じたり、論じたり、「これは違う」とかいろいろ語ればいい。決してご本人も、大本営発表みたいに崇めるものだとは思っておられないだろうし、マジョリティであることで責められる町山さんも大変だなと思う。

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