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弱き者の居場所はどこにある『沈黙』<ネタバレ>

突然ですが皆さん神様っていると思いますか?

わたしはいると思っています。なぜなら親がカトリックで、「神様とイエス様とマリア様というのがいるのだ」と子どもの頃から叩き込まれて育ったからです。親からそう言われると「ああ、目には見えないけどそういうのがいるんだな」と思うものです。神社に行ったら頭を下げるとか、畳の上に靴で上がるものではないとか、そういうのと同じです。

でもそうじゃない人が、「神様っているんだよ」といきなり言われても「いや、いないから」となるだろうことはわかる。神様というのは何をしてくれるものでもない。目にも見えないし耳にも聞こえないし触ることもできない。自動販売機みたいに押したら何かが出てきたり、風邪を引いた時の薬みたいに目に見えて何かを治してくれるとか、そういうものでもない。じゃあ、なんで神様を信じるのか?

遠藤周作の「沈黙」は、読んですごくショックだった。『沈黙』というのは、神の沈黙のこと、そして棄教した聖職者たちを無視してきた歴史のことだ。映画の舞台は17世紀、江戸時代初期。キリシタン弾圧が激化する日本の長崎に訪れた宣教師ロドリゴは、自らも迫害され、すさまじい拷問の末に殺される信者の姿を見る。神のために信者が苦しんでいるのに、なぜ神は何もしてくれず、何も言ってくれないのか?敬虔な聖職者であるロドリゴは、神の存在を疑い出す...

「沈黙」においては、ひたすらリアリスティックに「神は存在するのか」が問われた。弾圧される教徒たちは、生きたまま火で焼かれ、煮え湯を浴びせられ拷問された。キリスト教がうたう神の奇跡はどこにも起こらない。

聖書に書かれている神は、海を割ったり洪水を起こしたりして信じる者の危機を救ってくれるし、キリストは病人に手をかざして病気を治したり、パンと魚をめちゃくちゃ増やしたり、いろんな奇跡を起こして、具体的な行動で信じるものを救ってくれた。だが「沈黙」はそうではなかった。

遠藤周作は神の不在を通して”有用性”を問いただし、海を割ったりするような大げさな奇跡なしに、神はたしかに存在すると宣言したのである。それがものすごく感動的だった。

そんな小説を、名匠スコセッシ監督が映画にした。遠藤周作が「沈黙」を書いたのは、島原などで隠れキリシタンのことを調べているうちに、「殉教した立派な聖職者の名前はバチカンに立派に残っているのに、迫害で棄教した(転んだ)聖職者はその存在すらなかったことにされている」と思ったからだという。歴史から消された、信仰を捨てた聖職者。その人が見たであろう、感じたであろう苦難を現代に蘇らせたのがこの作品だ。

スコセッシ監督は、この映画を弱い者のために作ったという。

今、最も危険に晒されているのは若い世代の人々です。勝者が歴史を勝ち取り、世界を制覇するところしか見ていない。世界のカラクリがそのようなものだと思い込んでしまうのは、とても危険なことです。物質的な現代においてこそ、何かを信じたいという人間の心を真剣に考えることが大切なのだと思います。今、西洋ではそういった想いを小馬鹿にするような風潮がありますが、かつて宗教的基盤を作り上げていった前提が、今変革を遂げているのではないかと思います」

いまの物質社会において、人々は他の人よりも「強く」なければ、より多くの富を得ることが出来ないので、「弱い」者は価値がないとされる。人よりも強く、賢く、美しくなければ、価値がない。他人より弱いもの、劣ったものは死んで当然、そんな空気がある。

そんなこと言われたら、弱い人間はどこで生きていけばいいのだろうか?人々もメディアも、ヒーローを待ち望み、強者のことだけを取り上げて、弱いものは存在すら見えないかのようだ。

そしてこの映画では、わかりやすく、最も弱い者が出て来る。窪塚洋介演じるキチジローだ。彼は隠れキリシタンで、家族全員が踏み絵を踏まなかったのに、キチジローだけ踏み絵を踏んで生き延びた。家族はキチジローの目の前で、生きたまま焼かれていった。

キチジローは保身のために何度も神を冒涜し、そのたびに謝って許しを請う。その姿は醜く見苦しい。

聖職者なので人間が出来ているはずのロドリゴも、キチジローだけは信用できない。彼を心から軽蔑している。

その一方で、ロドリゴが流れ着いたキリシタンのかくれ里にいる信者たちは立派だった。重すぎる年貢に苦しむ農民たちは、隠れて信仰を守っており、ロドリゴたちを熱狂をもって迎え入れた。彼らのひたむきな信仰心は胸を打つものがあった。とくにリーダーのおじいちゃんと、塚本晋也演じる隠れキリシタンのモキチは強い人間だった。彼らは仲間をかばって受刑に志願し、信仰を守って、最後まで誇り高く死んでいく。

これが水攻め。モキチは磔にされてから死ぬまでに4日間かかり、命が尽きるときまで十字架の上で賛美歌を歌っていた。こうして死んでいった聖職者たちはバチカンに殉教者として名が残ったのだという。イエズス会宣教師にも「これほどのキリスト教徒はいないのではないか」と言われていたとか

ロドリゴもそうなると思っていた。強く優しく誇り高いロドリゴは、信仰を捨てるくらいなら死をもって償うのだろうと思っていた。

だが日本の役人は、「殉教者が増えてもキリシタンの結束が高まるだけだ。誇りを捨てて棄教させることがキリシタンの心をくじく」と考え、ロドリゴ自身を痛めつけるのではなく、信者たちが自分のために命を落とすさまをひたすら見せる。

極めつけは、自らが教えを受けたフェレイラ神父が棄教し、いまは日本名を持って妻と子をあてがわれ、「キリスト教はこんなに間違っている」という本を書かされるなど、キリスト教撲滅の片棒を担がされていることだった。それを知ったロドリゴは「人の魂を曲げるのは、拷問よりもむごいことだ」と涙ぐむ。

ロドリゴに信仰を捨てるように迫る役人もフェレイラ神父も、「日本は沼地で、キリスト教という樹木は育たない」と言う。篤い信仰心を持ち、ひたむきに神に祈るキリシタンたちも、神様を太陽に置き換えて拝んでいたり、「死んだら年貢も労働もないパライソというところに行ける」という理由で信仰していたり、キリスト教的愛という概念からはだいぶ違うポイントで信仰しているようだった。

拷問される教徒を前に、「お前が棄教すれば助けてやる」と言われ、耐え切れうにいよいよロドリゴは棄教する。踏み絵はいちど踏んでしまえば、何度踏むのも同じだった。自分のために人を殺しても、キリストの名を守るのが宗教なのか?それとも、キリストの名を汚しても守るべきものがあるのだろうか?

そして日本名を与えられ、キリスト教殲滅のために幕府の犬として嫁と子をあてがわれて働かされるロドリゴ。日本という沼に負け、むざむざと生き恥をさらしている...そんな感じだ。

そんなロドリゴを、昔と同じように「パードレ(神父)」と呼んでくれるのは、いまやキチジローだけだった。ロドリゴはキチジローと並んで踏み絵を踏むようになる。あれほど高貴だったロドリゴも、いまや軽蔑していた男とまったく同等になってしまった。そして落ちた人間となった今だからこそ、ロドリゴは神は何もいわなくとも、自分と一緒にずっと苦しんでいてくれていたのだと、その存在を感じることができたのである。

「あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」

スコセッシは敬虔なカトリックの家に生まれ、小学生の時から神父を目指すほど篤い信仰を持つ子だったが、成績が悪いため神学校に通えず断念。カトリックではタブーの離婚も3回しているし、だいぶ神様の言うことに背いて生きてきた。それでもずっと、神様を身近に感じてきたのだろう。

「強くあることが文明を維持していく唯一の手段ではありません。弾き出され、否定された人々を個人として知ろうとすることが大切なのです」(スコセッシ)

この映画はバチカンで300人以上のイエズス会司祭たちに向けて上映会が開かれ、教皇フランシスコとも会談したということで、キリスト教お墨付きのものになったと言われている。ひとびとのために棄教した司祭たちの苦しみや、ひいては町山さんによれば、いままでずっと蔑まれてきたユダという存在すらも、ようやく神のもとにいけるようになったのだそうだ。

ということで、信者でなくても興味深く見られる作品だと思いますので、興味ある方はぜひぜひ早めに見てください!

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