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ロサンゼルスの酒蔵で働いてみたら、いろいろ学ぶことがあった

6月の半ばごろからロサンゼルス郡、コビナという街になる日本酒の酒蔵(ブルワリー)で週末バイトを始めた。日本酒(無濾過生原酒2種類とドブロク)とビール(10種類ほど)、それから赤白ワイン3種ずつある。

自分がいつか日本酒バーをやりたい、と思ってるから実際日本酒を扱うところで働いてみよう、というのが一番の目的なんだけど、この3カ月ぐらいで結構その他いろいろ学ぶことがたくさんあったのだ。当たり前な言い方になるけど、いつもと違うことやると確かに発見すること多いよな、と思う。

まず、働き始めて2カ月ぐらいしてから言われたこと。

「アキコさん、説明がいちいち長いんです。そんなに頑張らなくていいから軽く説明して、後は質問があったら聞いてね、ぐらいで流しちゃってください。」

そうなのだ、私はいちいち説明が長い。というかくどい。オフィスの仕事でもそうだ。それは相手に間違ったことを伝えると申し訳ない、とか細かく説明しなかったため後で間違いが起きたら、とか、ここにたどり着くまでの経緯も説明しないとわからないのでは、などと考えてしまうから。

けれど、ブルワリーに来るお客さんはビールかお酒を飲みたくて来ているのであって、くどくどとお酒のうんちくを聞きたい、と思っている人はほとんどいない。当たり前だ。そうか、説明省いていいのか、というのは目から鱗が落ちるような発見だった。

説明がくどいのは自覚しているので、オフィスの仕事でもなるべく自分をチェックしているつもりだったけど、この一声があってから、聞かれたら付け加えればいいのかな、という気持ちに切り替わった(かも。実際どうかは聞いてみないとわからん)。

そして、

「ビールの説明もしなくていいです。だってアキコさんビール詳しくないでしょ。間違ったことをお客さんに伝えられるぐらいなら、知らない、って言ってもらったほうがいいです。」

とも言われた。間違ったことって。。。メニューに書いてあることと、あなたに聞いたことを口にしてるだけだが、まあ、説明しないでイイのなら、それでいこう、ということにした。ビールは10種類ぐらいあるからいちいち説明しているとさらに長くなるし、お客さんにとってもビールは未知の飲み物じゃないしね。

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第3の場(Third place)って日本的なものかと思っていたけど。。。
都市計画とかやっているから人が集まる場所に強い興味を引かれる。で、学校で都市計画を勉強してた時なんか、いかにして人が居心地よく過ごせる場所を意図的に作り出すか、そのためにはどんな政策をつくり、街づくりのデザインガイドラインにはこういうことを盛り合わせて、なんて話し合った。

なんていいつつ、実際仕事について周りの同僚や、自分の行動を観察してみて思ったのは、なんだかんだセオリーはあるが、アメリカ人って基本的に自分の家のリビングルームが大好きじゃない?だった。でなければバスケットボールやらフットボールのゲームをテレビで観ながら飲み友達と騒ぐためにスポーツバーに行く、とか。

まったりしっとりお酒を飲んでくつろぐ、ってないんかしら?と。こういう場所についてはいろいろnoteの記事を読んで、そういう場所ありがたいよね~ と思っていたが、これって日本的なんだろうか?それとも私の独りよがり?

ブルワリーに来てくださるお客さんと時間があれば話をできる余裕ができ始め、何かと尋ねてみる機会が増えてきた。そしたら結構、ここって落ち着くよね~ と言ってくださる方がいるのだ。

アメリカのブルワリーは基本的にはそこで作っているお酒・ビール以外は提供できないので、私が働く酒造のテイスティングルームにはキッチンもない。要するに食べ物はご自分でご自由に持ち寄りください、という感じで、テレビをつけてゲームを流しっぱなしでもない。音楽も私がうるさい音楽だとすぐ疲れるのでボリューム低く、適度にポップな音楽が流れている。私一人で働いてるからできることだけど。

そして内装的にはとても倉庫的、というか、隣がブルワリーで、その併設のテイスティングルームだから箱が山積みにされていたり、今から缶にビールを詰めるための空き缶が並べられていたり、とそんな感じ。

それでも友達と誘い合って来てくれて、まったりとビールなりお酒なりを飲んで、大きな声にならずにしゃべって笑って、また来るね~ なんて言いながらお店を後にされる。

そして実際また来てくれるので、余計にこっちもうれしくなってしまう。

いつもバーのカウンターになっているところに座って私相手にお話ししていってくれるお客さんとか。良くしゃべるお客さんが多いんだけど、その為にうちに来てくれてるのか、と思うと感慨があるのだ。

そんなことを反芻すると、ここのブルワリーはThird Placeとしての役割を果たしているのではないかしら、と思えてしまう。

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期待に応えることへの負荷

そして、これは完全に私の性格なんだけど、口約束でも、行きます、とかやります、とか言ってやらないと罪悪感に悩まされてしまう。逆に自分がそうだから、人が社交辞令で「行くよ」と言ってくれると、必ず来てくれるもんだと期待してしまうのだ。で来なかったら「なんで?!」と落ち込む(それほど大そうではないけど)。

例えば先週末にイベントがあり、焼き鳥、かき氷、ドブロク・カクテルなどを出してくれるベンダーさんたちがポップアップを出してくれた。その方達と話していて、今週の火曜日に別のレストランとポップアップをする、と聞いて、「必ず顔を出します」と言ってしまった。その時の私は本気で行く気だったんだけど。でも実際火曜日の夕方になると、そこまで行くのがやたらとめんどくさくなってしまった。で、行かなかったんだけど、なんで私、要領良く、行けたら行きます、ぐらいにしとかないの?と一人でグチグチ悩んでしまった。悩むほどのことでもない、とも思えるが、悩めてしまうのだ。

オフィスの仕事ではこの程度の要領は掴んでるどころか、やりたく無さそうだったら他人に仕事を回す技まで身に着けているのに。新しい分野(?)で新しく人を知りたい、と欲が出て、頑張りすぎているのかもしれないね、と思う。

逆に、お客さんが、また来週来るね、と言って来なかったら。一体何があったのかしら?とソワソワするのだ。幸いにも、「一体何が?」ってお客さんにだっていろいろ予定や事情があるだろうから、そんな口約束いちいちその通りに行動できるわけないやん、と突っ込んでくれる自分もいるので助かる。そうなのよね、約束したからって、その行動に対して何も制約するものが無ければなんてことはない挨拶みたいなもんだし。

なんて感じで、お店を回す程にも及ばないけど、ちょっとバーで働く、ということをかじってみて発見したことでした。

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