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【side C】まちがいとただしさのジャグリング。あるいは、それもone of the story.

noteを初めてからいくつか感想をいただいた。そのどれもが、FacebookやTwitterのコメント欄ではなく他人に読まれない個人的なメッセージでやってきた。

個人的なメッセージで感想がくるのは、その感想がとても個人的なものだったからだ。

いくつか頂いた感想は、全て自分の親、きょうだい、家庭環境、子供の頃のことを思い出したというものだった。

このnoteのタイトルは、『物語という名のライフストーリー』で、そう、物語には、ライフストーリーには、いつも親、家族、出自と過去がつきものだ。そして、古今東西のヒーローやヒロイン、いわゆる主役級の役柄をストーリーの中で演じるキャラクターは大抵、親がいないか、いても一人きりになるかがほとんどだったりする。ミヒャエル・エンデの『モモ』から『ベルセルク』のガッツまで。

親が子どもに夢を抱くのは、そりゃあ、もうどうしようもないもので、実際、自分の遺伝子を分けているし、多大なる苦労をして産み育てているわけだから、確かに、報われたい、と願うだろう。

ねえ、私の人生がまちがいではないと証明してよ。

私のnoteに感想をくれた方々は、家の中で主に親にそのように言われた経験があるようだった。

ねえ、私も、自分のことをまちがいで生まれた人間じゃないと信じたいよ。

私は、私自身のことをずっとそう思っていた。

考えてみれば当たり前の話だ。「まちがっていなかった」と証明したいと思うのは、「まちがっていた」と思っているからだ。そして、その「まちがい」を「まちがいではない」と証明する過程で、人は自らと周囲の間違いを数え上げる。「まちがい」を減らすために、そして、「まちがい」から遠ざかるために。

「まちがい」が存在すると思った時点で、「まちがい」から出来る限り細心の注意を払って逃げ続ける、もしくは「まちがい」を断罪して正し続けるしか方法はない、と思うものだ。もしくは、「まちがってもいいんだよ」と「まちがいがある」ということを肯定するか。

しかし、「まちがい」自体が「ない」としたら? 存在しないとしたら?

この問いは、「まちがってもいいんだよ」と言うこととは全く次元の違うストーリーである。

いわゆるヒーローの物語は、「自分のことをまちがいじゃないと信じたい」「報われたい」人間のストーリーである。物語上、「報われる」シーンは最大のカタルシスで、「ああ、よかった」と読む人間はほっとするものだ。

ねえ、私の人生がまちがっていなかったと証明してよ。

このストーリーは、親子関係だけではなく、ありとあらゆる関係性と自分の嗜好に表れてくるものであるが、ある意味で、「頑張れば報われる」「頑張れば愛される」というカタルシスを得やすい物語なので、誰もが気持ちよくなれるストーリーではあると思う。

そう、肝心なのが、これが、ただのストーリーである点だ。

本当に、本を読んでいて、読み終わったり、これはもういいかな、と思ったりするように、ぱたんとページを閉じることはできるのだ、人生のストーリーも。

「同じことを繰り返したくない」とよく言うが、「繰り返さない」という時点で「繰り返す」という起点から考えが始まっているのだと今気付く。

まちがいの傲慢さとただしさの卑屈さはいつも一緒で、その好悪と上下はそりゃもう笑っちゃうぐらいにくるりくるりとひっくり返る。道化師が投げるお手玉のように。

今、辞書を見てみたら、ジャグリングとは様々なものを巧みに投げたり受け取ったりして操ることを指すと書かれていた。

投げたり受け取ったり操ったり、そのジャグリングも物語のひとつ。

観客であるか、道化師であるか、それとも興行主であるか、そんなことはどうでもいい。

天幕の中にいるかいないか、天幕自体があるのかないのか。

いるかいないかは選べ、あると思うこととないと思うことも選べ、あるかないかという問いは、すでに、そこには存在しない。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。